円が世界一でない現状を
何とかしたいと思っている全ての人に
本書を捧げる
前書き
2004年夏、私は中欧を巡る旅に出た。旅行も終盤に差し掛かった8月末、プラハとワルシャワで2人の日本人大学生に出会った。2人とは全く別々の日に、別々の場所で出会ったのであるが、株という共通の話題で意気投合した。
私は20万円を1200万円まで増やした経験があったので、2人と別れた後、私の物の考え方をメールで伝えるという形で書き始めたのがこの本のそもそものきっかけである。
日本人は世界で1,2を争うほどの金持ちになったのだから、「投資家」のセンスを磨かねばならない、と10年以上前から思っていた。しかし、1990年のバブル崩壊以降続く不況で投資どころではなかったのであろう、その気配は一向に見えなかった。ところが2000年のITバブルを境に風向きが変ってきたようである。
それは私の周りの友人達にも言えることであった。
ITバブル以前、株を保有する友人はゼロ%だったのだが、ITバブル以降一気に10%まで急上昇し、その後も増加中である。
私はまだ株を始めたばかりの友人達に、私が何を考えどのように行動してチャンスを掴んだか伝えたいとずっと思っていた。しかし、10人以上いる株に関心を持つ友人たちはみんなバラバラにそれぞれの土地で生活している。中には外国で仕事をしている人もいる。時間は限られているし、私の体は1つしかない。始めから最後までしゃべろうと思ったら1か月は掛る。一々友人の所へ出かけて行って「1か月喋るから聞いて!」と言ったら確実に迷惑がられるであろう。ではどうすればいいか。今まで何人かの友人に株の本を書くように言われたことがあったが実現には至らなかった。私は元々書くのは好きなのだが読んでくれる人がいないと書けないし、書く気にならない。
たまたま中欧旅行中にライブドア ブログの存在を知った。
「これだ!」
こうして書くための条件が全て揃ったのである。
市場と対峙する時、呼吸が大事である。吸って(買い)吐いて(売り)吸って吐いて、、、これが逆になると当然損する。第8章からは自叙伝であるが、私の人生をなぞってみて呼吸法を体得してもらえれば本望である。
本書が日の目を見るに当たり、声援を送ってくださった全国の皆様にお礼申し上げます。
ありがとうございます。
ありがとうございます。
ありがとうございます。
森近秀光
夜明け
<目次>
前書き
第1章 序章
1 プラハからこんにちは
2 バックパックインベスター
3 増田俊男さん
4 中欧から帰ってきました
5 株というゲーム
6 本選び
第2章 自己資金を1年半で60倍にした私の読み方
7 対米決戦不可避論
8 資金20万円、さあどうする
9 どん底の株式市場でドンキホーテ株を発掘
10 ソフトバンク株でITバブルの追い風に乗る
11 中国株投資で500万円手に入れた
第3章 技術編
12 魚釣りと株
13 恋愛と株
14 やすで突く
15 マスコミに騙されない
16 一本に絞る
17 底で買う
18 儲けたお金を吸い取られる
19 最悪は最高!
20 東証一部は宝の山
21 業績変化率に注目する
22 天井で売る
23 株券に自由はありません
第4章 株式市場の読み方
24 2倍増、3連チャンで8倍増
25 時価総額の波
26 詐欺師、泥棒、暴力団
27 中国の成長に注目
28 アメリカの覇権、日本の復権
29 日米同盟に対する挑戦
第5章 ショートストーリーズ
30 ユダヤ人――競争に打ち勝つために
31 韓国人も涙する日本史
32 (戦争目的は)ダラーだよ!
33 海外旅行
34 反省しろ、だけど後悔はするな
35 腐ったらアカンで
36
第6章 聖戦 甥っ子の仇を討つ
37 お白州で話しましょう
38 医療過誤
39 裁判所に相談
40 紛争の要点を明確にする
41 調停 途中経過
42 弁護士さんと相談
43 医療過誤専門弁護士さんと相談
44 悪の枢軸
45 弁護士費用は?
46 刑事事件
第7章 大家さんへの道
47 競売物件
48 ついに中古住宅を購入
49 売却期日決定
50 所有権の移転
51 事業計画書
52 不動産 全額支払い完了
53 元の所有者と交渉すべき?
54 大家さんへの道 一歩前進
55 大家さんへの道 また一歩前進
自叙伝 社会人になってからの歩み
第8章 上海探究 語学留学編
56 保護から飛び出す
57 上海視察旅行
58 上海脱出 バンコクへ
59 いざ上海へ
60 寮生活と勉強のこと
61 石と油にやられる
62 エレベーター事件
63 ボッタクリ手口 その1
64 ボッタクリ手口 その2
65 ボッタクリ手口 その3
66 激動する日本
67 中国語学習を終えて東南アジア周遊を決意
68 東南アジア周遊の旅
第9章 家出して上京
69
70 東京へ向けて出発
71 派遣のアルバイトで憧れの東京生活
72 仕事、旅行、飲み歩きがワンパターンに
73 憧れのヨーロッパ3か月周遊の旅
74 進路に悩む
75 靖国神社へ初詣、そこで、、、
76
第10章 上海探究 職探し編
77 7年ぶりの帰郷
78 母と姉を連れて上海再上陸
79 旅人のメッカ上海
80 上海で株式投資塾を始める
81 チャイナテレコム畏るべし
82 日本語教師
83 2002年 聖夜
84 公安接待
85 歴史論争
86 新規出店の契約
87 何でこの店で働いてるの?
88 敷金を奪還せよ
89 2003年正月
90 ウォーシーリーペンレン
91 店長やる気になった?
92 不動産トラブル再び
93 STRONG BUY !
第11章 最後に みんなへのメッセージ
94 仕事は自分で探す
95 天才の系譜
96 出でよ!世界一の投資家!
第1章 序章
1 プラハからこんにちは
モリイです。はじめまして。
色々と書くことが好きなんで、ブログに挑戦してみることにしました。
<プロフィール>
本名 :森近秀光
ニックネーム :モリイ 工業高校卒33歳 (2004年当時)
18歳~23歳 岡山県倉敷市、水島コンビナートの大手化学会社で化学プラントのオペ
レーター
24歳 上海で中国語の勉強(その後東南アジア放浪)
25歳~28歳 東京で半導体製造マシンの調整
29歳 東京で電子顕微鏡の調整
30歳~31歳 上海で仕事探し
32歳~33歳 地元広島県福山市で就職。某機械系メーカー勤務。韓国駐在員に。
33歳 再びフリーに。フリーはこれで4年目なので何とかなるさと余裕か
ましてます。これもすべては株のおかげ。
<株歴>
1989年 バブル最後の年に18歳で株を始め、30%UP3連チャンで60万を120万に。
バブルが崩壊してもマイナスにならず、
1998年 ドンキホーテ株で20万を500万に。その後ソフトバンクに乗り換えて500万→1200万に。
2001年 上海B株、香港H株で500万円ゲット。
2003年 2倍増を2連チャンで取ったものの前半戦が良くなかったため、収支トントン。
2004年 500万を800万に出来たので、中欧の旅に出ました。
2 バックパックインベスター
「バックパックインベスター」と自称しております。
会社に属さない生活はこれで4年目(社会人になってからの合計)ですので、心臓にも毛が生えてきてそんなに悲壮感もありません。何とかなるだろう、ぐらいなもんです。相場予想はやらないことにしていますが(やればやるほど当たる確率が落ちるので)株に対するものの考え方については持論を開陳しても全く問題ないと思っています。
勝敗を決するのは株に対する「姿勢」と「態度」、「執念深さ」「我慢強さ」「柔軟性」ですから。クラクフいいですね。街はきれい。ユースもきれいで安いし、飯もうまくて安い。
旧市街広場で伝統ポーランド料理が安く食べられるきれいなレストランを発見しました。スープとロールキャベツで6.5ズォティ(200円ぐらい)驚きましたね。
明日はいよいよアウシュビッツです。ではでは。
クラクフにて モリイ
3 増田俊男さん
朝トルンを出て、今ワルシャワに着いたところです。今日は快晴で「空高く馬肥ゆる秋」は中欧でも当てはまることを知りました。
楽しく読書しているみたいでいい感じですね。学生時代は勉強が忙しいと思いますけど、就職したらもっと忙しくて旅行も読書も出来なくなるかも知れません。会社によると思いますけど。
増田さんの考え方を理解することは非常に重要です。アメリカの金持ち達が考えている事(世界戦略)が予想できなかったら株では一生勝ち組になれないかもしれません。私の場合、株を始めて7年ぐらい分かったような分かってないような、という感じだったんですが、増田さんを知ってから霧がパッと晴れた感じになったんです。一番のお勧めは「日本はどこまで食われ続けるのか」です。
アマゾンのユーズド価格100円のようです。 ではでは。
モリイ@ワルシャワ中央駅
4 中欧から帰ってきました
2カ月中欧を旅行してパタヤに戻ってきました。中欧はなかなかよかったです。街並みは落書きが多いものの期待通りのヨーロッパだし、悲惨な歴史が多いものの歴史好きには堪らないし、西ヨーロッパに比べれば激安だし・・・。1番良かったのはポーランドかな・・・。ちょっぴり華やかで人は優しく、飯もうまくてそこそこ安い。歴史的見どころもある。バルト海なんていう海もある。もう1回行ってもいいかなと思わせるものがありましたよ。
5 株というゲーム
株は100人いたら80人は負け続けるというゲームですから、しっかり地力をつけてこれから始める70年戦争を勝ち抜いて下さい。コツさえ掴めば勝ち続ける20人の仲間になれます。勉強をしっかりしてから始めるように言ってる訳ではありません。まず始めることです。すると沢山疑問が湧いてきますから。その疑問を1つずつ調査していけば何年か経ったときに洗練された投資家になっていることでしょう。勝ち続ける投資家にね。
大事なことは既にワルシャワで話した通りです。
1、不景気で株価が低迷している時、最悪の状態で「買い」
株が上昇して好景気になり皆ながかぶかぶ言い出したら「売り」
2、相場の本質を理解し、勝ち組と同じ行動をとる。
<勝ち組のやり方>
悪い情報を嘘を交えて垂れ流し、恐怖心を煽って安く叩き売らせて安く仕込み、今度は逆にいい情報を嘘を交えて垂れ流し、高値に吊り上げて売り抜ける。
このような事を勝ち組同士グルになってやっている。アメリカなんていう国はこれと同じ方法で属国日本から毎年兆単位のお金をボッタくっている。資本調達したい会社はこのオペレーションを数年かけて実行している。だから会社(アメリカ)と同じ行動をとれば勝ち組になれるということ。
3、株の王道、成長株を発掘して割安な値段で購入する。
1,2,3、の内、これが1番大事かもしれない。
では楽しんで投資して下さい。質問はいつでも大歓迎ですよ。
モリイ@パタヤ
6 本選び
本選びは簡単ですよ。すでに株を始めている人は有利です。斬った張ったを繰り返しているとどうしても自分の思い通りにいかない場面に遭遇します。これが「疑問」になる訳です。
本の内容というのはタイトルをみれば大体わかるものなのです。タイトルは3秒広告でありまして、この3秒の内に読者を惹きつけなければならないから、著者、出版社共同で何日もかけてタイトルを考えているのです。何か疑問を持っていればタイトルをさーっと見ていくだけで、読みたい本が目に止まるのです。目に止まったら著者の「前書き」を読んでみる。この前書きには、著者が1冊の本を通して何を言いたいのか簡潔にまとめてあるので気に入れば読んでみればいい。
第2章 自己資金を1年半で60倍にした私の読み方
7 対米決戦不可避論
よその国へ財貨を奪いに行くことを戦争というのなら、1998年、日本はアメリカと戦争していた。否、一方的にフクロにされたと言った方が真相に近い。
1997年、タイバーツ暴落で火蓋は切って落とされた。
「何なんだ、、いったい、、」
アメリカ空売り部隊の奇襲、スネークアタックだと解るのにそんなに時間はかからなかった。
「クソッタレが!ピットちゃんは無事だろうか・・・」
すぐに電話した。
「ピット!大丈夫か!」
「モリイ!どうしてなの?!分からないよ!早く来て!会いたいよ!」
「大丈夫だから、ちょっと待ってて、すぐ行くから、落ち着いて」
東南アジアはアメリカ空売り部隊の総攻撃に襲われた。タイ、マレーシア、シンガポール、インドネシアと、1平方㎝の隙間も空けない徹底した絨毯爆撃を受け、各国の通貨、株式市場は全面下げの展開となり、タイバーツにいたっては、1B=4.5円だったのが2.3円まで暴落、約半額となった。ローンを組んでまで不動産投機に熱狂していた人たちはひとたまりもない。東南アジア全域で数千人が自殺した。
1998年になった。中国大陸はすっ飛ばして韓国が攻撃されて火の海になった。日本海の向こう側でB29大編隊の爆音が轟いている。
「対岸の火事では済まされない。次は日本だ」
底知れぬ恐怖心に襲われたが、同時に負けじ魂が核分裂を起こして火の玉になった。
「対米決戦不可避!畜生め!クリントンに挑戦してやる!」
私は腹を括った。
アメリカはマスコミを使って日本ダメ論を垂れ流し、日銀に指令して市中に出回る紙幣を回収し、経済活動を収縮させていった。株、為替、不動産市場は暴落を繰り返し、日本を恐怖の淵へ追い込んだ。これら一連の追い込み策に耐え切れなかった人は「目玉売れ!肝臓売れ!」と追い詰められ、夜逃げ、或いは自殺した。
私は大東亜戦争を思い出していた。ミッドウェー敗走から硫黄島陥落、沖縄を取られたあと日本全土絨毯爆撃、そして広島・長崎原爆投下。
私は羽村へ向かう通勤電車の中で毎日泣いていた。溢れる涙が止まらなかった。
「最大のピンチは最大のチャンス」「最悪は最高!」「全てが灰になれば需要は莫大」
先達が遺してくれた叡智を胸に投資先を探した。ドンキは先達からの贈り物だ。
戦争はいつになったら終わるのか、落とし所はどこになるのか、メルクマールを必死で探った。
「メルクマール、それはね、日本の銀行を買収した時だよ」
魂の師匠がそっと耳打ちしてくれた。
1998年10月某日、遂に原爆が投下された。
「リップルウッド、長銀買収決定!」
テロップがテレビの画面を走り抜ける。
「もう終わったからね・・・もうみんな死ななくていいからね・・・」
メディアから日本ダメ論は一切姿を消し、春の日差しのような暖かい雰囲気になっていった。
「戦争は終わった。後は上げ一本だ」
私は確信した。
その後、ドンキ、ゴールドクレスト、ガリバーなど一部のエクセレントカンパニーが爆走し、1999年年になってからはIT株か怒涛の上げを演じたのは皆さんご存じの通りだ。
私の自己資金はドンキで20→500、ソフトバンクに乗り換えて500→1200となった。
<アジア危機の本質>
アメリカは1980年代後半の日本同様、アジア各地でミニバブルを発生させ、それまでの20数年で蓄えた財貨を丸ごと掠め取る作戦に出たのだった。
カジノやパチンコ、およそ博打と呼ばれる全てのゲームに共通するのは元締め必勝の法則だ。元締めというのは、初めのうちは勝たせてやってカモが油断するのを待ち、実力以上の大きな勝負に出させるタイミングを虎視眈々と狙っている。口座残高をすべて引き出させ、尚且つローンを組ませて将来稼ぐであろう給料までぶち込ませるタイミングを謀っている。
そして全ての財産を賭場にいぶり出し、魔法の杖を一振り、親が総取りするわけだ。
親の手の内を読み、親の一歩先を行く。そうすれば勝てる。
以下4つに区切って詳細に記述する。
*大底買いのための資金調達―――「資金20万円さあどうする」
*自己資金を25倍に―――「どん底の株式市場でドンキホーテ株を発掘」
*自己資金をさらに倍、1200万円に―――「ソフトバンク株でITバブルの追い風に乗る」
*中国株で500万円手に入れた。
8 資金20万円、さあどうする
金持ち父さんがおっしゃる通り、チャンスはいい意味で人間を強欲にする。異常に安い投資先が見つかったら、自己資金ゼロでも落ち込むことはない。お金をどこからか借りてくればいい。わざわざ借りに行かなくても実力が認められればお金は向こうからやってくることさえある。
1998年6月、私の自己資金は20万円しかなかった。ではどこから資金を調達したのかここで説明しよう。結論を先に言うと、それは親から借りたのだ。
「マンションを買いたい。今は史上最低金利だからチャンス」
というようなことを説明すると、
「おお、そうかマンション買うのはいいことだな。賛成だよ」と言って100万円貸してくれた。結局マンションは買わず、ドンキ購入資金になるのだが。
日本株は96年6月から2年も下げ続け、トドメにアメリカの絨毯爆撃を受け、金利は史上最低、株も不動産も大底、バブル後の大底になるだろうと確信していた。
株も不動産も下げ続け、マスコミは日本ダメ論を垂れ流すという、うっとうしい時代をうっちゃるため、もらった給料はすべて海外旅行と飲み代に遣っていた。なので、手持ち資金は20万円しかなかった。
断っておくが、給料が安くて生活がやっとだったわけではない。自給1500円からスタートし、98年には2000円弱になっていた。2000円×150時間、残業なしでも月に30万円ぐらいにはなる。1人暮らしするには十分だ。本来なら派遣の給料には年金、保険が含まれているのだから貯金するべきだが、20代は自分に投資しよう、世界中見て回ろう、そうでないとグローバルなマーケットでは勝てないだろう、と考えて貯金はしなかった。
当時立川のアパートで1人暮らしをしつつ、派遣で仕事をしていた私は生活の安定と安心が欲しかった。
「今なら金利も史上最低だし、マンション買いたいな。派遣という不安定な身分だが給料は十分だ。飲みに行って高い金払って不満を抱いてイライラする不健康な使い方するぐらいならマンションでも買ったらどうか」と思い、マンションを探すことにした。
2LDK、70平米、3000万円。
最上階にあるモデルルームを見せてもらい、福生から多摩川沿いに広がる美しい夜景を見て大いに気に入った。担当者はとても熱心で、夕方4時から夜8時まで説明してくれるという、力のこもったものだった。とりあえず買付け希望の確認書にサインして欲しいと言うので、契約という効力のないこと、キャンセルしてもキャンセル料が発生しないことを確認してサインした。
「明日、正式な契約をお願いします。印鑑をお持ちになっておいで下さい」
私は人生の大きな分かれ道に立っていた。ここで契約すれば毎月8万円のローンと、固定資産税を払い続けなければならない。その代り広くて新しい部屋に住める。しかし、もう福生から離れられなくなる。人に貸すという手もあるが・・・・。
私は悩みに悩んだ。本気で不動産購入を考えたのはこれが初めてだったからだ。
「不動産を買うとき、それが投資目的なら、ロケーションと利回りが大事」
これだけは頭にあった。
「担当者は人に貸したら10万円はもらえると言っていた。となると利回りは年間家賃収入120万円÷3000万円=4%となる。不動産市場が大底で、金利が史上最低でもこれっぽっちか・・・」
何が何だか分からないまま日付が変わった。いよいよ夜が明けたら契約だ。
朝、目が覚めてから、自分が住んでいるアパートを紹介してくれた近所の不動産屋の社長を思い出した。
「あの社長ならいい人そうだから、いいアドバイスをしてくれるかもしれない」
私は契約に行く前に社長に相談しに行った。
「こんにちは。お久し振りです。前にアパートを紹介してもらったモリイです。覚えてらっしゃいますか。
「ああ覚えてるよ。どうしたの?」
「実は・・・」
社長は興奮して怒りだした。業者に向ける怒りだった。
「マンションなんてやめときな!今は中古で安い家がたくさんある。羽村なら2000万だよ。一軒家なら管理費と修繕積立金を払わなくてもいい。自分に余裕がある時に手をいれればいいんだ。2LDKで家賃10万?そんなに貰えやしないよ!7万がいいとこだよ!それに福生駅前でしょ。なんでそんなとこに買おうと思うの?そりゃやめたほうがいいよ!」
その他に、買った後に売りに出すとかなり値下がりする。だから人に貸しても損、売却しても損、どうにもならなくなることを説明してくれた。
そう言われて目が覚めた。新築と中古の違い、それが利回りと大いに関係あることが直ちに理解できた。新築に住みたいという希望はあるものの、一人暮らしで新築2LDKはあまりに無駄に思えた。投資の条件を満たすには中古でなくてはならない。
「マンションの契約はやめにしよう」
社長にお礼を言ってからアパートに戻り、マンションの業者に電話した。
業者は猛烈に怒り、昨日までいい人だったのがヤクザに変身した。ヤクザ口調で脅しをかけてきたので、こちらも負けじと応戦、電話をガチャンと切った。
その後、毎晩のようにアパートに押しかけてきたが、こういう輩には「返事もしない」「玄関も開けない」というのが1番よい。交渉は気迫と根性、持ち時間が長い方が勝つ。
業者もいつしか諦めて来なくなった。
「不動産の世界はまだよく分からないな。これは株に負けず劣らず魑魅魍魎の世界だ。これからよく勉強しなければ・・・」
親から借りた100万円は返そうと思った。マンションを買って借金を背負うのは派遣という身分にはかなりのリスクだし、不動産の世界にも恐れを感じたからだ。
「100万円返そうと思うんだけど」親に電話した。
「それはもうあんたにあげるよ。だけど家を買う時にはそれを使いなさい。これで最後だよ」
母は投資とは一切かかわらずに生きている人だが、私が借金の申し出をするといつも快く貸してくれた。私が18歳で初めて株を買う時も30万円貸してくれた母だった。自分でやって失敗するのは怖いけど、息子がやりたいと言うのならそれに賭けてみようという判断だったのだろうが、私が高校3年になってから真剣に株に取り組んでいるのを横で見ていたから貸してもいいと思ったのだと思う。だから人間何事も真剣にやらなければと思う。
9 どん底の株式市場でドンキホーテ株を発掘
<信じ切ってはいけません>
株は未来予測ゲームですから、自分で予測する、ということが大事です。にもかかわらず、予測が立てられない場合、つい人に聞きたくなってしまいます。しかし、どんな大先生でも株価なんて未来のことですから絶対いくらになる、と言い切れるものじゃないですし、全く方向性の違うことを言ってしまうことも多いのです。
特に、ほとんど意識になかったノーマーク銘柄の場合は反射神経で予測を言ってしまう。すると、株は反射神経でやると大体逆になるので、外れて大損するわけです。
私に初めて株の世界を見せてくれたのは親戚のおじさんなんですけど、そのおじさんは私から見たらすごい人でした。1990年代後半、おじさんは小さなスーパーをやっていたんですが、そんなに儲かっているようには見えませんでした。でも株は絶好調だったようです。娘が結婚したら、大阪に3000万円のマンションを現金で買ってあげたりしていましたから、資産2億以上あったんじゃないでしょうかね。
そんな凄いおじさんでも、ノーマーク銘柄については判断を間違えるのです。
1998年7月、銀行や証券会社がバタバタ倒産するという経済史でしか読んだことのなかった現象を目の当たりにして、バブル後の大底になるだろうことを確信し、投資対象を探すべく、雑誌を片っ端から読んでいきました。1か月かけて30誌ぐらいは読んだと思います。数銘柄に絞った中にドン・キホーテという会社がありました。
今では超有名になったので皆さんよくご存じでしょうけれども、当時はまだ4店舗しかなかったのです。私はドンキの未来を計りかねていましたが、業績自体は当時の日本経済の状態から見れば信じられないくらいに絶好調でした。
①株価は直近の1年で3倍になっており、それ自体信じられない思いでした。
②来期の売上、純利益とも2倍になる見込みであり、それまた信じられない思いでした。
こわごわと6000円で100株、60万円分買い。証券市場は暴落に次ぐ暴落を繰り返した後だったので、私自身恐怖におののいていました。しかし、ドンキは私が買ったあと下げない。それどころか10円、20円幅でじわじわと上昇し始めたのです。
しかし、この時点においてもまだ、いくらになるだろうと自分で予測を立ててはいませんでした。
「下がったらどうしよう、またマイナスになったらどうしよう・・・」
頭の中は暴落の恐怖に支配されていました。
ところが株価は私の恐怖心をあざ笑うかのようにポンポン上昇していき、約1か月で約2倍の1万1500円まで大暴騰したのです。
バブル崩壊から8年が経過していました。また、1銘柄で2倍にしたのも初めてだったので、嬉しくて嬉しくて狂喜乱舞しました。しかし、私の頭では到底理解できない現象であり、株が上がって嬉しいものの、気持ちの方は完全に置き去りにされていました。
「もうピークかもしれない。明日から暴落するんじゃないか」
嬉しい気持ちが大きくなればなるほど、恐怖心の方はそれよりもさらに大きくなっていくのでした。
「もう売った方がいいかもしれないな。今のうちに利益確定しないとまたマイナスになってしまうぞ。でも、まだ上がりそうな気もするしな」
「そうだ、久し振りにおじさんに電話してみよう。かっちり掴んだことを報告しよう」と思った。
この時の心境は、天才ボクサー辰吉丈一郎がベルトを奪取した時にカメラに向かって言った
「父ちゃん、やったで」と同じと思ってもらえば間違いない。
「もしもし、モリイです。お久振りです」
「おお、モリイちゃんか。元気でやっとるか。いまどこだい?」
「東京です。おっちゃん、ドンキホーテっていう会社知ってますか?」
「んん?知らんなぁ」
「一か月前にドンキ買ったら2倍になって、嬉しくて嬉しくて、おっちゃんに報告しなきゃと思って電話したんですよ!」
「なにぃー!、よくこんな時に・・・」
株式市場は暴落の嵐が吹き荒れて、ほとんどの投資家が自信喪失していた時だったから無理もない。おじさんもいつになったら相場が回復するのか見当がついていない様子だった。それでも何かにすがりたい脳無しモリイは尋ねた。
「おっちゃん、どうすればいいですか?売った方がいいんですかね?」
「こんな時だからね。早く売った方がいいんじゃないの?」
「やっぱりそうなんですね」
「おじさんも売った方がいいと言ってるし、とにかく売って逃げよう」
先を考える脳みそを持たなかった私はおじさんの判断に従った。
ドンキはピークから20%程度下げたところで上げ下げを繰り返し、収束に向かっていた。当時私は手書きでチャートを書いていた。毎日グラフ用紙にローソク足を書き込んでいくのだ。そのグラフの上限は1万2千円だった。単純に買値の2倍を上限にしていた。1万2千円より上に行くことを想定していなかった何よりの証拠である。
ドンキ売却後もチャートを記録していったのだが、私が売った後、調整から収束、収束から過去最高値へと展開していった。
「どうせダブルトップを打って下がるんだよ。最高値を超えることは出来ないよ」
と思う反面、
「株は売った後が高い。また、過去最高値更新後の方が伸び率が高いと言うしな」
両者の綱引きで頭が一杯になっていった。
悪い予感の方が当たりだった。調整から収束、さらに新高値へ。1万1千円の壁もあっさりとぶち破り、あっという間に1万3千円に到達したのだ。私が売った後の方が上げ方が急になっていくのを見せつけられたら、間違いだったことを認めざるを得ない。
「とにかく買い戻そう」
売却前の株数を買い戻すためには新たに40万円ほど投入せざるを得なかった。
「他人に判断を委ねてはならない」
この教訓を学ぶための授業料としては安かったと今では思っている。
買い戻した後、株価はいくらまで上がるのか、全身全霊を傾けて予想した。ドンキ社長が書いたものに丹念に目を通し、4店舗すべてに買い物に行く、といった具合に。
調査の結果、ある重要なことに気が付いた。ドンキ成長の秘密は深夜営業と圧縮陳列、買い物にアミューズメントの要素を加えて消費者に楽しい時間を提供しているのだと。
確かにドンキに買い物に行った時、あれやこれや買い物して楽しかったことを思い出し、さらに思考は展開していった。
「ドンキはバンコクのナイトマーケットみたいなものだ。安くて珍しいものが雑然とならべてあり、夜遅くまで営業している。飲んだあと勢いで買ってしまう人も多いだろう。日本のデパートは何でも売っているが買いたい物がないと言われて久しく、そこには買い物の楽しさが欠けていたのだ。大手のデパートは減収減益で人員整理しているが、これは60年に1度の構造大転換期に来ていることを意味すると何かで読んだことがある。既存の小売業は衰退してドンキが次の時代のリーダーになるのではないか。もしそうだとすれば現在4店舗しかないけれども全国制覇を果たすのではないか」
ここまで思い及べば後は計算するだけだ。
「商圏に10万人いれば1店舗出せると社長が言っていた。日本は人口1億人だから1億割る10万で1000店舗だ。現在4店舗しかないのだから、店舗数250倍、売上げ利益とも店舗数に比例して250倍になるであろう。株価は現在1万3千円、PER120倍。PERの適正値を20倍とすれば6倍高く買われている。となると250を6で割らなければならない。約40倍だ。株価1万3千円を40倍すると52万円。話半分とすれば約25万円だ。100株だから2500万になる。
「100万円が2500万円になるのか」
私は興奮の極みに達した。
運よく相場はまだ終わっていなかった。買戻しの後もさらに過激に上昇していった。2万達成。2万5千円達成。3万円達成。連日上昇率1位か2位だ。私は狂気の狼に変身した。
「グへへへへ、、世界はオレの物だ!ドンキは絶対25万になる!」
この時点ではまだ新たな教訓を学ぶことになるとは思いも寄らなかった。
クライマックスが近づいていた。ドンキは1:2分割無償増資を発表。株価はこの材料を好感し、さらに弾みがつく。数週間後、分割実施。持ち株は200株に増えた。株価はますます上昇。分割前換算で遂に私の買値の11倍、6.6万円に到達したのだ。
ここがピークと気付くほど私は鋭くなかった。
「いや、まだまだ上がる。ドンキは25万になるのだ」
売却のことなど思いも寄らなかった。私の思惑とは裏腹に株価は下落していった。出来高も急速にしぼんでいき、含み益が260万吹き飛んだ。
「途中に調整は付き物だ。ここを我慢しなければ25万を掴むことはできない」
私は自分の考えを修正することができなかった。
99年の夏になっていた。株価はピークから40%も下落したにも関わらず、私はまだ売却をためらっていた。
「成長株は持ち続ければ報われる」
この言葉か頭から離れなかったからだ。
この夏、立川通信(株)の仲間と伊豆へ1泊2日の旅行に出かけた。ビーチには水着ギャルがわんさかいるのに、ちっとも楽しくなかった。株価上昇中はめちゃくちゃに強気だったが、株価の下落に合わせて一寸法師のように小さくなってしまったからだ。伊豆では一日中、下を向いて歩いていた。顔を上げることすら出来なかった。
「私は何か間違っている」
旅行から帰って、座右に置いてある先達の本を何冊も読み返した。
「大相場、その後の調整まことに長し」
ある1つの格言にぶつかった。「ゼロから30億円稼いだ私の投資法」著者、遠藤四郎さんの言葉であった。
「ドンキの今の状態は、勝ち組投資家が株価のピークで株券を大量売却し、市場がジャブジャブになった状態で、後は下落の一途を辿り、3年間は調整が続く」
そう認めざるを得なかった。絶対に25万になると強く信じていたが、それは間違いだった。そのように結論付けると丁度タイミング良く、どこからともなくドンキを買い推奨する情報が流れた。目標株価3万円だ。株価は再び勢いを取り戻し、2万を底に3万を目指し始めた。私は非常にクールに2万5千円で200株売り切った。
自己資金20万円は1年で一気に500万。25倍に増えた。
しかし、株価が盛り返してくれたのは運が良かったのであり、1歩間違えたら利益を全部吐き出してしまうところだった。
「自分の物の考え方、予想も常に疑ってかからねばならない」
99年の苦しみはいい教訓になった。
10 ソフトバンク株でITバブルの追い風に乗る
ドンキを手掛けて重要な2つのことを身をもって経験した。
1つは「恐怖のどん底で買う」こと。
もう1つは「天井付近で売り抜けなければ儲け損なう」こと。
「天井付近で大口が大量売却した後は、相場がじゃぶじゃぶになって、買いたい人より売りたい人の方が多くなり、下げの一途をたどる」
この理論を実戦で使ってみるチャンスが間もなくやってきた。
99年の秋になっていた。
相場の柱が少数のエクセレント新興企業群(ドンキ、ゴールドクレスト、ガリバーなど)から、情報通信関連株にシフトしていくのが分かった。ITとはアメリカが震源地で、その余波が日本にも押し寄せているのだということは、株に関心を持つものなら誰でも分かっていた。97年時点でヤフーを買いたいと思っていた時期があった。ずいぶん昔の話だが、それでも株価は200万円ぐらいしていて、将来性はあるとは思ったが、どうしても買いたいとは思わなかった。理解力がなかったのだ。あの時に買っていれば今頃は・・・などと言ってもどうにもならない。
それはさておき、そのヤフーは99年秋、数千万円になっていて、とても手の届かないところにいた。
「ヤフーはもう買えないが、ソフトバンクなら買える」
ヤフーの親会社がソフトバンクである事も、株式市場に出入りする者なら誰でも知っていた。ただ、単位株買うのに450万円必要だった。
「単位で450万円。これは高いのか安いのか。まだ上がるのか、もう下がるのか」
「自分の頭で考えるしかない」
これもドンキの取引で学んだ事だ。
アメリカ株式市場は、日本のバブル崩壊後底打ちして上げ続ける、という逆相関になっていた。しかも約10年も上がりっぱなしで、バブルだ、もうすぐ暴落するぞという論調で統一されていた。1980年代の日本のバブルの時もそうであったが、マスコミがバブルだ、バブルだと騒いでいる時はまだピークではない。みんなが狂喜乱舞して、株だ!株だ!明日も暴騰するぞ!と、お祭り騒ぎになった時、「買う人」「買う資金」が最大になり、相場は下げに転ずる。
このような流れになるだろう事は、18歳で日本のバブルとその崩壊を経験した私の体にしっかりと刻み込まれていた。
「まだ後1年は相場が続く。しかも最後の1年が最も上げ方が激しい」
そう結論付け、ソフトバンクの分析に入った。
手に取った本は400ページもある大作であった。
「やられた・・・・・」
日本がバブルの後始末に追われていた9年の間に、アメリカはインターネットというフロンティアを開拓し、莫大な富を築き上げていたのだった。その富の大きさは、マイクロソフトの時価総額数兆円(10年で600倍)、IT関連市場ナスダックの時価総額が日本のバブル期相当の時価総額600兆円と同じである事などからその巨大さに度肝を抜かれた。
孫さんはアメリカ人にも負けない程の開拓者の1人だった。私はバブル後ただ苦しんでいただけだったのに、孫さんはフロンティアを発見し、なお且つ行動し、巨大な帝国を築き上げようとしていた。
ショックだった。ショックで1週間体に力が入らなかった。
「すごすぎる」
インターネットの未来、ヤフー、ソフトバンクのすごさ、ソフトバンクを買ってみようと思うことなどを回りの友達たちに話してみたが、見事に全員半信半疑、否定的だった。マスコミの論調も「バブル」で統一されていた。
幸い株価は押し目を付けて数か月調整、しかも収束した後、出来高も小さくなっていた。
「やすで突く絶好のタイミングだ。私が気付いていなかったぐらいだから、まだ、ほとんどの人は気付いていないはずだ」
「絶対勝てる」
私は確信を持って買いに行った。4万5千円で200万円分買い。
株価は予想通り調整、収束のあと、高値奪還に向けて動き出した。6万円を超えた後、500万円分全財産を投入した。
ソフトバンクは市場から認知され、過激に上昇。この時友人に宛てたメールが今も私のPCに残っている。
「ソフトバンク7日連続S高!ありがとう!」
株価が上がって嬉しいものの、バブルと分かって踏み込んだ相場だったので、生きた心地はしなかった。
2000年になり、一旦押した。私は持ち株の半分を売却した。しかし、まだ最後の材料「長銀買収」が出ていなかったので半分は残した。時の総理は小渕さんであった。私は「小渕さんは人間の大きな人だから、孫さんに長銀を売るだろう」と半ば確信していた。1回だけだが小渕さんとメール交換したことがある。それが根拠だ。
「だからまだピークではない。故にまだ上がる。」
10万を超えたあたりから有名な先生方がソフトバンクを買い推奨するようになった。それまで「空売りを掛けよ」とまで言っていた人達だった。
「ピークが近いぞ」
私は売り時が近づいている事を感じ取った。
2000年3月、ワールドビジネスサテライトを見ていたら、ビルゲイツさんとバフェットさんがツーショットで現れた。バフェットさんは
「マイクロソフト社に投資いたしました」と言って、ビルゲイツさんとがっちり握手。アメリカのITバブルここに極まれり、という観だった。
ソフトバンクは10万円の高値を奪還したあと、さらに過激に上昇していった。取引高は3000億円に到達。東京証券取引所全銘柄取引高の30%を占めた。この異常さは長年相場に出入りしている者なら誰でも感じることであった。
間もなく最後の材料が発表された。
「ソフトバンク、長銀買収決定!」
ピークの19万円で売り切ることはできなかったが、2割下がった16万円までに全株売却した。
500万は1500万になった。ドンキの時から私は少し成長していたが、私の体は株価上昇という麻薬物質に汚染されていた。株の上昇が切れたら禁断症状を起こし始めたのだ。そしてバイオ株に手を出し、2日連続出来高ゼロのS安で300万円失った。
頭から冷や水をぶっかけられてやっと平常心を取り戻した。
「長銀買収という最後の材料が出た。取引高3000億という異常状態もあった。マスコミ、お偉い方、皆強気に傾いた。異常なほどに。なにより日本のバブルの大前提であるアメリカのITバブルがダブルBのがっちり握手で終わりを告げた。今後数年は回復しない」
1200万円をがっちりとキープした。
11 中国株投資で500万円手に入れた
株は最終的には自分との戦いだ。
買いたい欲望を抑えて底打ちを待ち、大底の1番怖い所で恐怖心を克服して買付けを行い、途中売りたい衝動を抑えて天井を待ち、天井を叩いたらクルリと相場に背を向けて立ち去らねばならない。長居は厳禁である。
ドンキ、ソフトバンクと大相場を2度体験し、底で買って天井で売る読み方に自信が付いた。しかし、天井まで売るのを我慢できていない、これが反省点であった。
「次回こそは天井まで全ての株を持ちこたえ、全ての株を天井で売りたい」と思うようになっていた。
ITバブルが終わった後、日本の株式市場は回復の見込みがなかった。
「大相場、その後の調整まことに長し」だ。
1990年から始まった日本のバブルはどのくらいかかって底打ちしたのか月足で確認すると、3年だった。ITバブルは1980年代後半のバブルに比べると短期で天井に達したし、規模的にもそれより小さかったので、ITバブルの方が早く底打ちするかなと思っていた。(しかし、実際は3年かかった)
ITバブルの崩壊は決定的だった。
「もう、アメリカも日本もしばらくは回復しない。私は買いのみだから、しばらく儲けることはできない」
このように結論付けるのはいとも簡単であったが、問題は夢が無くなることだ。
夢なしでは生きていけない。
そう思う人は多いのではないか。
「日米以外でどこかいい投資先はないか」という目で世界のマーケットに目を向けると、中国が目に止まった。少し脱線するが、私は1995年に上海へ中国語の勉強をしに行ったことがあった。
「日本は高度成長が止まったので、次は冷戦と共産主義で焼け野原になった中国だ」
95年当時、そのように考えて上海へ語学留学したのだが、帰国~ITバブル終了までの5年間、関心の中心から外れていた。留学中に散々ぼられて嫌になっていたのと、97年に始まったアメリカによるアジア絨毯爆撃の範囲外にあったため、研究対象から外れていたということもあるが、何より日本のことを理解するだけで精一杯だったからだ。
さて、ITバブルははじけたものの、何かがくすぶり続けていた。
新たな投資先を探しているのは私だけではない。それらを合計すると相当なパワーがあることはITバブルの大きさから容易に想像できた。
莫大な資本が調達されたということだ。
95年以降も中国に関心は持っていたが、関心の中心ではなかった。私は5年ぶりに中国を関心の中心に持ってきた。
「何かがうごめき始めている」
香港市場は世界のマーケットとリンクしてITバブルを終えていたが中国本土市場B株、香港H株は大きく動き始める前段階であるように見えた。中国も一連のアジア危機の影響を少なからず受けていたが、月足で見ると、96年をピークに下げ続け、底練りを終えて上昇し始めたばかりであった。やすで突く安全なタイミングであった。しかし、私は語学留学したことはあったものの、投資したことはなかった。それどころか留学中はボラれまくってソファーに投げ飛ばされたこともあった。
タイミングは間違いないと思えるものだったが、投資行動に移すためには「また中国に吸い取られるのではないか」という恐怖心に打ち勝たなければならなかった。恐怖心に打ち勝つためには株価が「割安か」どうか、「今後上がるのか」どうかを判断し、それらが問題なければ後は精神的なバリアを破る「メンタルをコントロールする」だけであった。
割安であるかどうかはA株と値段を比較するだけでよかった。2000年末、B,H株はA株に比べて5~10分の1の値段で売られていた。
「1万円札が1~2千円で売られているようなものだ。1万円札を今日1千円で買い、明日1万円で売るようなものだ」と思った。
今後上がるのかどうかは前述の通り「調達された資本量」と「やすで突く絶好のタイミング」であり、問題なかった。
後はメンタルのコントロールだけであったが、これが1番難しかった。私は1部上場企業を辞めて単身上海へ渡り、自分の目で調査研究してきたのだから、そこらのファンドマネージャーに負けるわけがない、というあまり根拠のない自信と空元気しかない新規参入者に違いなく、バリアが破れ切れていなかった。実際の話、中国株に目を付けたのは2週間前だったのだから。しかし、私はどちらかというと行動が先走るタイプなので、2000年末、株価の上昇に我慢が出来なくなってB株の「上海郵電通信設備」と「大連化工」を200万円分買いに行った。底から約2倍まで上昇した後だった。
口座を開きに行った証券会社の担当者は、
「今は危ない時期だから止めた方がいいですよ」とのたまうものだから、いきり立つ感情を押し殺して、
「コメントはいりません!損失、機会損失を補填してくれるんですか?じゃなかったらコメントしないで下さい!責任取ってくれるんですか!」と精一杯声を抑えて言った。
「上げにつられて買いに行くとそこがピークになって下落する」
古今東西を問わず、相場の鉄則であろう。2001年の年明けとともに両銘柄共、株価は下落していった。株価は1か月で約30%(約60万円)下落。ITバブル後日本株にちょこちょこ手を出しては少なからぬ痛手を負った上に、初めての外国株投資でまた評価損が出た。全身から血の気が引いていき、顔面蒼白となった。精神的なバリアが破れ切れていなかった私は正気を失った。
「また中国に吸い取られる・・・」
日本株では味わったことのない感覚であった。何か悪い材料が出たという訳ではなかった。海の向こうということもあり、日本のマスコミは静かで、中国株のニュースなど一切なかった。だからマスコミに煽られた訳ではないが、何もニュースがないというのはそれはそれで不気味であった。喩えて言うなら、肝試しに行った場所がシーンと静まり返っていたら怖くて逃げ出したくなるのと似ていた。
私はメンタルのコントロールを失い、ブレーキの壊れた自動車のように暴走し始めた。
「中国株全株売却して下さい!」証券会社の担当者に電話した。
中国株は手数料が高い上に為替手数料まで払わなければならず、買って売ると1往復で約7%も元本が減ったので、株の下落30%と合わせると40%弱(80万円)の損失となった。しかし、精神的にはそんなに落ち込まなかった。直近の2年半で2つの大相場に揉まれた経験が私を逞しくしていた。
「底から2倍になったピークで我慢出来ずに買って、30%下落でまた我慢出来ずに売った。30%下落は丁度きりのいい下げ幅だ。もしかしたら押し目の底だったのではないか。底が恐怖のピークになる所であり、私が売ったということは押し目の底だったのではないか」
メンタルのコントロールが効き始めてはいたものの、ドテン買戻しという訳にはいかなかった。この教訓はまた別の取引で生かされることになるが、ここでもすぐに買い戻せば良かったのだ。手数料は1往復分損失になるが、手が届かなくなるほど高くなってから買い戻す事を考えれば遥かに資金効率がいい。株も気楽に構えてゲームと割り切ってこだわらないこと、つまらない意地を張らないこと、意固地にならないこと、無駄なプライドを持たないことが大事である。歯軋りして歯を折ったり、地団駄踏んで足を骨折したりするよりは遥かに健康的だ。
さて、株価は私が売った後底打ちし、次の日から上昇し始めた。前述のようにメンタルをコントロールしてすぐに買戻せば良かったのだが、そこまで熟達していなかった。つまらない意地や無駄なプライドが邪魔したのだ。歯軋りしながら株価を見守っていたら、直前のピークを越え、セオリー通り直近高値を抜いた後の方が上げ方が過激になっていった。そして遂に私の売値の2倍まで上昇したのだった。
この段になってやっとつまらない意地と無駄なプライドを引っ込めることが出来た。
「目指す頂上はここからさらに2~3倍、もしかしたら5倍かもしれない。しかし、B株はもうかなり高くなった。読み方は間違っていないようだから、B株よりもさらに割安に放置されている香港H株も買おう」
「買戻しお願いします」
できる限り感情を消して電話し、再度200万円を投じた。
滑り込みセーフだった。
後に語り草となる、世紀の瞬間に立ち会うことができた。
「B株の取り引きを停止します」
中国証券取引委員会は突如取引停止を発表。3日後に「最大にして最後の大材料」――既に投資していた人は待ちに待ち、投資できなかった人は信じられなかった、或いは信じてはいたもののバリアを破ってメンタルコントロールして買付けすることができなかった大材料――
「B株を、ドル資産を持つ中国の投資家に開放する」が発表された。
「今度こそ全ての株をピークまで持ちこたえ、ピークで全株売却したい」
私は全神経を集中して天井にぶつかるのを待った。
「1日間違えたら100万円違ってくる。しばらく僕に質問しないで」
まわりの株友達に伝えた。
「ここからは自分の欲望と暴落の恐怖に打ち勝っていかねばならない。最終的には自分との戦いだ」
私は出勤前のロードワークを始めた。毎朝4時半に起きて立川競輪場の周りを走った。
体から株価上昇という麻薬物質が抜けていき、頭は冴え渡った。
「北京オリンピック決定」
「WTO加盟決定」
2001年6月。おまけの材料が発表され、ピークを打って下げ始める銘柄が出てきた。大体の株が10%伸びてピークを打ち、出来高は最高水準を記録し、次の日10%暴落、その後急速にしぼんでいく、という感じで動き、私の持ち株も同じ動きをした。
「10%伸びるのを確認できた。次の日10%暴落した。ピークは過ぎた」と判断し、全株売却。自分でも納得の取引結果だった。ピークから10%下がるまでに全株売却できれば上出来だ。再投資額200万円と失った80万円、合計280万円は半年で800万円になった。
2001年6月20日。売却の1週間後、私は西ヨーロッパ3か月周遊の旅に出た。
第3章 技術編
12 魚釣りと株
魚釣りと株はよく似ていると思います。
よく魚釣りは「気の短い人の方が向いている」と言われます。キャスティング(投げる)してみて魚の存在を探る。慣れてくれば魚の存否はすぐに分かるんじゃないでしょうか。魚が1匹もいないと分かれば、また別のポイントに投げてみる。ピクピクきたら魚がいることがはっきりします。食いつきが悪いだけの問題なら、仕掛けを変えてみたり、餌を変えてみたり、餌を躍らせて誘惑したり、しっかり食いつくまであの手この手を駆使します。そして、全ての魚を釣り上げてしまったら別のポイントに移動します。
株の世界もこれと全く同じだと思えば間違いありません。釣りには「釣る人間」と「釣られる魚」がいます。株の世界も「釣る勝ち組」と「釣られる負け組」に分けられます。
絶対に釣られてはいけません。自分は釣る側、釣り師だと常に言い聞かせましょう。
これだというポイント(株)を探してキャスティングしてみる。ピクピク来ないのにどうして釣り糸を垂れたままにしておくのですか。ピクピク来なかったらすぐにリールを巻いて(売却)別のポイント(株)に移動すべきだと思います。魚がいない場所で魚が釣れる訳がありません。
何度も投げていれば「来た」「来ない」と判断できるようになります。「来た!ここは魚が沢山いるぞ」となれば、あちこち投げていた竿(分散投資)を1つのポイントに集中して投げるべきだと思います(集中投資、1本買い)。しかし、これは相場の初動でしかやらない方がいいです。または一旦押した所を狙うかです。ただし、押し目の追撃買いは相場が過熱している時は相当慎重にやらねばなりません。相場の上昇に我を忘れて追撃買いすると、そこが当面のピークになって押し目を付けに行くことがよくありますから。
追撃買いの後下げると、精神的にかなり動揺します。株は精神の安定が何より大事ですから、動揺すると拙いことになります。株が下がるのがピンチなのではなく、動揺することがピンチなのです。
後は魚が食いつくように惑わすのです。良いニュースをメディアに流していく。決算発表となれば会計基準の許す範囲内で操作して、驚愕の数字を発表する。社長がメディアに露出して夢を語る、といった具合です。
魚が全員集合したら、投網をバサッと投げて(持ち株の大量売却。株式市場で資本調達という)一網打尽にする。そしてまた別の漁場を探す。これを繰り返せばいいのです。
13 恋愛と株
恋愛と株も非常によく似ていると思う。
顔といい、スタイル性格といい、遠くから見ていて自分のタイプだったら、彼女の欠点など一切見えず、盲目的に恋い焦がれていくじゃないですか。
「話しかけたい、でも、冷たくあしらわれたらどうしよう・・・」
声をかけることさえためらうほど遠い存在なら尚のこと緊張する。
まずは勇気を振り絞って挨拶してみる。冷たくシカトされるかもしれないし、にっこり笑顔で「おはよう^^」と言ってくれるかもしれない。日常の雑談が出来るようになれば、一緒に帰ったりする仲になるまでそんなに時間はかからない。それからご飯を食べに行く約束をしたり、映画に行ったりして親密になっていき、ある日、思いを遂げる。
男というものは思いを遂げると急速に興味を失ってしまう場合が多い(私だけか)
逆に「つまんない男!」と愛想を尽かされるかも知れない。
初めての失恋ほど堪えるものはない。自信喪失し、ひどい場合は自殺する人もいる。振った女性の所に夜中電話したり、家の周りをウロウロしたり・・・
最近ではこういうのをストーカーと言いますね。スパッと諦めて次へ行かなきゃならないのに諦めきれない。
株も同じプロセスを辿る。
「これは!」という会社が見つかったら、いろいろと調査してみる。上がると判断すれば買付けしてみる。運よく波に乗れればそれでいいが、買っても買っても振り向いてくれない場合もある。私なら振られたんだと気付いたら、スパッと諦めて次へ行く。
もっとも、買付け前の調査が足りないか、或いは買付けのタイミングが早過ぎるからそういう結果になるのであって、損切りしないでいいように万全を期した方がいいのは言うまでもない。
大損しないこと――見切り千両の大切さ――
貯蓄十両 儲け百両 見切り千両 無欲万両
儲けるのは誰でもできる。その後、失わないようにするのが難しいのだ。
失わない事の大切さを説明するのに、「見切り千両」を持ってくるのも変だが、これこそが儲ける事よりも大事なことだ。
例えば、他の銘柄で儲けたお金で、ソフトバンク株をITバブルの末期に19万円で買ったとする。買ってすぐに下げだすことになるが、ここで振られたことに気付いて見切り売りが出来ていれば、そんなに大怪我はしなかったはずだ。振られたことを認められなかった人は損が拡大していき、10分の1以下になってしまったことだろう。損した上に資金も拘束されるというダブルパンチだ。
自分は振られたんだと謙虚に認められるかどうかでその後が違ってくる。損が拡大していくのを放置してはならない。
株式市場のメカニズムを理解することと、「見切り千両」が大事だと理解することは同義である。
あなたは見切りできますか。
14 やすで突く
やすで魚を突いたことがありますか。
私は子供の頃、夏になるとよく海に潜って魚を突いていました。動いている魚はなかなか突けないものですが、止まっている魚は簡単に突けます。
狙いを定めて追っていき、岩陰などの狭い場所に逃げ込んだり、砂にもぐったりして、動きが止まった時を狙えばいとも簡単に突けます。
株もこの要領で買付けを行えば大怪我しません。突如ワーッと人気が出て、出来高が膨らみ、株価がどんどん伸びる。こういう状態は魚が逃げ回っているようなものですから、突くのは待った方がいい。一旦押して、株価の変動が止まり、出来高も急減した状態。これが買付けの絶好のタイミングです。
デイトレ花盛りです。デイトレーダーは相場の派手な動きに注目していて、そこへ全員で押しかけていきます。皆が買ったらもう買う人はいないんですから、しばらく調整します。高値掴みした人達が損切りしていき、出来高が急減して相場が落ち着いた所で買付けを行えば大損はしません。
上昇率上位に顔を出す銘柄はデイトレーダーを嵌め込む罠である場合がほとんどです。相場の地合いにもよりますが、2004年後半のような相場つきが悪い時期はよく注意して下さい。
「なぜ上がっているのか」「割安なのか」「初動であるか」よく見極めてから買いに行かないと大火傷します。動きが止まってから突きましょう。
景気がどん底にある時は、ほとんど全ての株が安値に叩き売られている。景気がある程度回復すると、どれもこれもそれなりの値段に回復する。業績がさっぱり改善されていない銘柄は底を這うが、順繰りに回復していくので、見逃さないようにウォッチングしていこう。
15 マスコミに騙されない
底値で買いに行くのは、慣れないうちは相当な勇気がいります。
底値にあるという事は、不景気な場合が多い。テレビも新聞も雑誌もインターネットでさえも悲観論一色になる。この世の終わりみたいなムードになってくる。
これに騙されてはいけません。騙されないようにするには、より多くの真実をきちっと押さえておくことです。日本のGDPはいくら、貿易収支はいくら、所得収支はいくら、それらをひっくるめて経常収支はいくら、その内訳はどうなっているか、個人金融資産はいくらあって、それは世界の個人金融資産の何%を占めているか。
こういったことをきちっと押さえていけば、日本なしではこの世は成り立たないことが分かってきます。マスコミが総悲観の時は、世界の宝である日本の株が安く買える大チャンスなのですから、怯えるのではなく、投資対象を探す時なのです。
マスコミはなぜ陰から陽へと激しく振れるのでしょうか。マスコミは巨大資本に利用されているのです。暴落させて買い占めたかったらマスコミを使って売り煽る。暴騰させて売り逃げたかったら買い煽る。簡単な話です。よく株には情報が大事だと言われますが、これは大間違いです。情報とは魚をおびき寄せるための撒き餌でしかないのです。
今日もまた、テレビ、新聞、雑誌、インターネットで大量の撒き餌がされています。
「すべての情報は嘘である」
こうはっきりと認識できた時、あなたは底で買って天井で売ることが出来るようになり、大儲けできる。
16 一本に絞る
「卵を一つのお皿に盛ってはいけない」
「数銘柄に危険を分散させるべき」
よく言われることですね。私はこの考え方には否定的です。分散は投資金額が1000万円を超えてから考える事だと思います。1000万円ともなれば不動産の購入も視野に入ってきますし、株を買うにしても量が多すぎて買いたい時に買えない。売りたい時に売れないという場面も出てくるでしょう。しかし、高々資金量数百万円ぐらいだったら一本に絞るべきです。
理由は3つあります。
一つ目
数ある銘柄から絞りに絞る。最後に残った銘柄は甲乙付け難いですね。それでもどっちか一本に絞るのです。ここで悩んで葛藤することが、あとあと生きてくる。買った方が暴騰して買わなかった方が伸び悩めば、予想が見事に的中したということで、自信につながります。それはそれで結構なことです。
逆に、買った方が伸び悩み、買わなかった方が暴騰したらどうでしょうか。最後に残った2銘柄ですから50%の確率だったのです。それを外した訳ですから、落ち込み、悩みます。この悔しさが、人間を成長させ、知識と知恵を蓄える原動力になるのです。
分散させていたらどうでしょうか。絞りに絞って最後に残った2つからさらに1つを選ぶというプロセスを経ていなかったら、当たり外れの感動、悔しさがかなり薄いと思います。悔しさが薄かったら、反省して原因の調査をする力が出にくいんじゃないでしょうか。
二つ目
「卵を一つのお皿に盛ってはいけない」「数銘柄に危険を分散させるべき」というのは、一つの罠だと考える事も出来ます。先に述べたように、一本に絞ると人間が成長するのです。それに、株価の行方に対する集中力が一本に絞られるので勝ちやすくなる。一般投資家に勝たれると困るのは巨大資本です。ですから宣伝費を使って「卵を一つのお皿に盛ってはいけない」「数銘柄に危険を分散させるべき」と、一般投資家を惑わしていると私は考えています。
三つ目
3つ買って3つ共同じ上昇率ということはあり得ません。中には下がるものもあるかもしれない。一番値上がりする銘柄一本に絞った方が資金効率がいい。当たり前ですね。
特にまだ株を始めたばかりの人は、集中力を高めて一本に絞り、一つ一つの売買から何かを学んでいかなければ成長しません。
17 底で買う
「底で買う」。こう言うとタイミングを上手に捕えることをイメージするかもしれませんが、そうではありません。
2003年から2004年にかけて5倍以上になった株は数えたわけではありませんが、50以上あるのではないでしょうか。
1年で数倍になるような株を上げ始めの初動で買いたいものです。1年で5倍以上になるような株は2年ぐらい底練りしている場合が多いのですが、2年も底練りしている株は強いのです。これでもかこれでもかと悪材料をぶつけられても下がらなかったから「底」なのでありまして、その間、大口さんによって買い占められています。相場はタイト、カラカラなのです。
ですから、株を買う前に10年チャートを見た方がいいです。過去に高値があって、そこから暴落し、何年か底練りしているかどうか。
「相場とお化けは寂しい方に出る」という格言があります。人気化して一相場終わった銘柄は危険性の方が大きく、逆に人気が離散して底を這っている銘柄の方で相場は芽吹くものですよ、という意味です。
底で買うのは慣れないうちは怖いものです。まだ下がるんじゃないか、もっと下がるんじゃないかという恐怖心に襲われます。でも、そういう一番怖い所が底なのです。
また、「街に血が流れている時が買い」という格言もあります。こういう状況は戦場でもなければないですが、これは例えなので経済的事例に置き換えて考えなければなりません。
相場における安心感とは何でしょうか。成長株を持っていれば安心かというとそうでもない。何か月も下げ続けることもある。PBRが低ければいいかというとそれも違う。PBR0.5だったものが、0.2になることだってある。自分が信念を持てる株だったらいいかというとそれも違う。自分の考え方が間違っているかもしれない。
私は、相場における安心感とは、上げトレンドに乗れているかどうかだと思う。
底で買い、上げトレンドに乗れれば後は毎日のように上がって行くんですから安心して眠れます。
大底から離脱する時は皆が半信半疑の「ベア」なのでそんなに短期で暴騰しないものです。半年ぐらいは付き合うつもりで気長に待ちましょう。
18 儲けたお金を吸い取られる
トレンドには「上げ」「下げ」「ボックス」の3種類しかない。もっと言えば「上げ」「下げ」2種類のトレンドしかない。月足でチャートを見ればわかる。
儲けたお金を全て相場に吸い取られた経験がある人は多い。原因は「上げトレンドから下げトレンドに転換した後は売りから入らなければならない」のに、上げトレンドの時と同じように買いから入るのが間違いなのだ。日が経つにつれて安くなっていくのに、買値より高く売れるはずがない。
売りから入るというのは空売りのことをいう。空売りが出来ない人は上げから下げに転換した相場に長居しては絶対にだめだ。クルリと向きを変えて立ち去らねばならない。私はこれをはっきりと認識するのに10年ぐらいかかった。
これには先ず、
① 転換したかどうか見極めて、
② 相場にお金を入れない強固な意思が必要(最低でも半年は何がしかの方法で資金をロックするとよい。口座からお金を引き出すくらいでは誘惑に負けてしまう人は、海外旅行に出る、不動産に変えるなど)
転換したかどうかは
① 上げトレンドが1年程度続いたか。
② 大口が売却したか。
③ 周りの人、マスコミ、皆がかぶかぶ言い出したか。
これらのことに注意を払っておけば分かるようになる。
<相場にお金を入れない強固な意思>
実はこれが一番難しかったりする。なので私は証券口座からお金を引き出し、海外旅行へ行くことにしている。大相場の後に相場にお金を入れて吸い取られることを考えたら、旅行代金100万円ぐらい安いものだ。この旅行中に頭を冷やし、見聞を広げることが出来ればいいことづくしだ。
もっと賢い人は底練りを終えた上昇前の株に乗り換える。或いは利回り採算に乗る不動産に変える。私は今、不動産に挑戦している。
19 最悪は最高!
沢山の会社を調査していくと、「この会社丸ごと欲しい」と思わせるような会社がいくつか出てきます。そうしたらチャートがきれいになるまで注意深く追っていきましょう。場合によっては2年でも3年でも追っていくのです。株式市場でストーカーするのは良い事です。チャートがきれいというのは、高値から下げ続け、底練りすることをいいます。
「底値はいくらになる。いくらになったら買おう」
このように予測して買付けを行うと、大体さらに下がって慌てます。買値を決めるよりも、調整期間を予測する方が大事だと思います。
注意深く観察しながら底練りするのを待ちましょう。
ある程度底練りしたら「ここら辺が底だろう」と見当が付きます。しかし、大体の場合、見当を付けたところからさらに2,3割安くなります。相場は上にも下にも行き過ぎるものなのです。恐怖心で正常な判断が出来なくなって異常に安い値段での「投売り」。この現象が起きない限り底打ちしないのです。
釣る側の人間は、恐怖を演出するためにあらゆる手段を駆使します。その一つが最悪の決算発表です。少額の赤字予想だったのが、一転して大幅赤字を発表する。小さな赤字だからと買っていた人達が恐怖のどん底に落ちて判断力を失い、投売りしてしまうのです。釣る側の人間はここで大量の株券を買います。出来高が急増するのでそれと分かります。
「底練りも終わった」
「恐怖の投売りも終わった」
「来期は相当に忙しくなるだろう」
このように3つぐらい絶対に底と思う理由があったら、たぶん底になると思います。後は上げていくだけです。
大幅赤字発表~一段安という最悪の状態は「最高!」の買い場なのです。
20 東証一部は宝の山
先にも触れましたが、大勝ちするには底値買いしなければなりません。底練りから復活の初動で買うのです。
東証一部の銘柄は、店頭→東証二部→東証一部というふうに、審査基準を1つずつクリアーして大きくなっていった、いわゆるオールドエコノミー銘柄が多い。1990年代後半にバブルで大相場を演じ、いくつもの波を経て、底値で収束している。繰り返しになりますが、こういう銘柄は強いのです。
中国の需要が旺盛で2003年から2004年にかけて鉄鋼株が大きく値上がりしましたが、鉄の次は高炉用レンガ、ガラス、セメント、自動車、精密、ロボット、というふうに、順繰りに上がっていく。全ての業種業態がいっぺんに上がるということはあり得ません。何事にも順番があるのです。これをうまくサーフィンしていけばいいのです。2倍か3倍になったら欲をかかずに売却し、より安全な所、より値上がり率が見込める所へとサーフィンしていくのです。
2倍増を10回連続で取り、途中大負けしなければ、
2×2×2×2×2×2×2×2×2×2=1000倍ですね。
100万円からのスタートだったら10億円ですね。
日本株式会社の復活は始まったばかり。10億円ぐらい簡単に取れますよね。
21 業績変化率に注目する
株式投資では成長株を買うのが王道です。業績変化率が高く、従って投資資金も急速に膨張していくからです。業績変化率だけで言うなら、赤字から黒字、大幅黒字へと変貌していく会社の株もまた、大変身します。
赤字が長く続いた会社の株は叩き売られて底をさ迷っている場合が多い。そんな会社が黒字転換し、さらに大幅黒字へと変貌していくと株価大成長となります。2003年に鉄鋼株が5倍になったのはこうした経過を辿ったからです。連続赤字→株価長期低迷→黒字転換→株価上昇→大幅黒字達成→株価大暴騰という流れです。
今後数年に亘ってオールドエコノミー銘柄が順繰りに復活していきます。見送るか、取りに行くかはあなた次第です。
22 天井で売る
天井の見極め方の1つに、出来高を見る、というのがあります。
株式市場で資本調達したい会社は数年に亘って安値で株を買い集め、株価が反転したら天井までナンピン売り上がりを行います。そして最後に天井付近で株券を大量に売却します。好材料がセットになることが多いです。
この時に出来高が浮動株と同じくらいになったら、天井と見ていい場合が多いです。浮動株数は会社四季報に記載されているのでチェックできます。
23 株券に自由はありません
株価は絵に描いた餅です。食べられません。売却し、現金化して始めて自由になります。現金であれば美味しい物も食べられますし、モノを買うこともできます。旅行に行くことだってできます。企業の場合でも、株券はそのままでは使えないので、現金化して設備投資をしたり、人件費を払ったり、福利厚生に力を入れたり、大体のことはできます。
「成長株は持ち続ければ報われる」と信じて、大相場の後も持ち続けていると、今度は過小評価の極限値を叩くまで下げ続けますから、その間、資金が拘束されて何も出来ません。一相場終わったと思われる株券にしがみつかないようにしましょう。売却した後も魅力を感じるのであれば、ピークから3年後に買うといいと思います。
第4章 株式市場の読み方
24 2倍増、3連チャンで8倍増
1株利益が3年連続2倍増を達成したら、株価は大体8倍になります。業績予想を見て、向こう3年連続2倍増を達成しそうな株があれば株価は8倍になるでしょう。売上、利益が倍々で増えていく場合もあれば、売上30%増、1株利益は2倍増という場合もあります。後者の場合は売上に対する利益率の上昇であり、1株利益の伸びはいずれ頭打ちになります。純利益が連続2倍増を続けるためには売上が連続2倍増しなければ数字的に無理なのです。売上が3割増なら純利益もいずれ3割増に落ち着きます。純利益ではなく売上が連続2倍増する
株券は会社の所有権です。事業の一部を所有しているのです。ですから結局、株価は業績次第です。
25 時価総額の波
東証一部の時価総額は、波の下限が230兆円ぐらいで、上限は500兆円ぐらいです。GDPの半分から一倍までの間を行ったり来たりします。上限と下限を覚えておけば今現在の加熱度がどのくらいなのか見当が付きます。下限にある時は悪いニュースが溢れますが、そこがまさに「底」ですから、投資対象を探し、勇気を出して「買う」時です。逆に上限にある時は良いニュースが溢れますが、後は下がるだけですから撤退しなければなりません。
26 詐欺師、泥棒、暴力団
私はド田舎で生まれ育ち、高校卒業後は地方都市に住んでいた。それでだと思うが、人を疑うことを知らなかった。警戒心を持ち合わせていなかった。
騙されて酷い目にあったという経験が無かったし、ちょっと騙されたぐらいでは生まれてから20年の間に似たような経験があったり、見聞きしていたから、真剣に考えてみるきっかけにはならなかった。旭化成の寮でバイクのヘルメットを2回連続盗まれたり、最後にはバイクも盗まれたりしたが、そんな目に遭っても「人間とは何であるか」などと改めて考えることはなかった。仕事やら何やら忙しくて考える暇もないという事情もあった。
上海に行って思ったのは「ああ、人間みんな詐欺師なんだ」ということ。美人局や、暴力バーやら、ボッタクリタクシー、食い逃げなんていう、シンプル且つ古典的手法で散々やられて人間の本質に疑問を持つようになった。
その後放浪したり、本を読んで過ごしたりして、ひたすら物を考えることに時間が持てるようになった時に、増田俊男さんの著書に出会い、「人間みんな詐欺師、泥棒、暴力団」というフレーズを見て、心底納得したのである。それで初めて相場の裏側に考えが及ぶようになった。
株券を発行する「売る側」と「買う側」、「釣り師」と「魚」、「猟師」と「カモ」・・・反対側の立場にいる人が考えている事に思い及ばないと、「絶対勝てる」と思えるはずがない。いや、もっとはっきり書こう。敵の戦略、戦術が読み切れなかったら、ケンカに勝てるわけがない!つまりは「敵を知り、己を知れば百戦危うからず」なのだ。
株式市場はガチンコ勝負、ケンカの場なのだ。千人、万人、千万人の大軍を前にしてもひるまない闘志を持ち、尚且つ冷静に相手を分析して、分が悪い時は速やかに撤退し、相手が弱るのを待つ老獪さも必要だし、ここぞという時は果敢に攻め込む勇気と度胸も必要だ。株は相手がいる心理戦であることをはっきりと認識せねばならない。株はケンカなのだ。
日本はGDP500兆円でアメリカに次いで世界2位の大国である(2004年当時)。世界には200カ国あるので、2位というのは凄いことだ。そんな凄い日本だから、社会構造は非常に複雑である。後進国のようにシンプルでないから、よくよく観察しないと分からないことが多い。新築一軒家を買わせて36年ローンに縛り付ける罠や、年金、日本国債、米国債・・・気分が悪くなるので詳細は書かない。
そんな複雑な日本で一番複雑、巧妙な罠が仕掛けられているのが株式市場だ。私が言うのもおかしいが、株式関係者は全員―――自主規制、削除―――
シンプルに考えて基本を外さないようにしよう。
1. 不景気のどん底で買い。(株価が半年ほど先取りする)
2. 好景気のピークで売り(同上)
3. 市場が落ち込み出したら、売り方に変身するか、市場から撤退する。(長居厳禁)
4. 割安な株を買う(証券分析力がいる)
5. 成長株を小さなうちに発掘して、大きくなるのを待つ。(但し過去に大相場があった銘柄は3年ぐらい調整する)
こういう基本的な事を押さえておくのが大事である。
27 中国の成長に注目
現在中国には莫大な富が存在します。富とは皆が欲しがる物やサービスのことですが、これは買ってくれる人がいないと意味がありません。言い換えれば富とは「物を欲しがる人」なのです。その物を欲しがる人が中国には日本の10倍もいるわけです。ですから、中国には莫大な富があると言えるのです。
日本は経済成長をひた走り、車も住宅も電気製品もほぼ買い揃えてしまった。だから極端に言えば日本にもう需要はないのです。しかし中国は違います。戦後の50年間共産主義をやって産業が荒廃し、貧乏のどん底に落ちたのです。戦後の日本を思い浮かべれば似たような所があります。全ての都市が灰になったんですから需要は莫大ですね。中国の場合はそれよりももっと下のレベルなんです。上海などは一見大都会に見えるけれども、張りぼてなのです。外国からいろいろ寄せ集めて作っているわけ。日本は戦争で灰になったけれども元々文化レベルが高く、技術力もあった。しかし中国はここ何百年も豊かで文化的な生活なんてしてないんです。だからインフラ整備からしなくちゃいけない。建設機械が飛ぶように売れたり、鉄や石炭が毎年倍々ゲームで増産されているのはそういう背景があるからです。
突如出現した巨大市場中国。成長エンジンはもちろん日本なわけです。日本に何十万社あるか知らないけれど、そのほとんど全ての会社が中国に必要なんです。だから日本人は膨大な受注残を抱えていると言っていい。
1990年のバブル崩壊以来、日本はスクラップ&縮小を繰り返してきた。株式市場は1年上げては2,3年下がるという具合に収縮していった。中国は高度成長していたけれども、その金額があまりに小さく、日本のGDPを押し上げるほどの力がなかった。
これからの20年は風景がガラリと変わる公算大です。中国のGDPが100兆円を超えたあたりから日本にとんでもない影響を与えるようになった。対中輸出が1兆円ならたいしたことはないけれど、10兆円(2009年)にもなると話が変ってくるということ。
10兆円だと日本のGDPを2%、倍になれば4%も押し上げます。
縫製などの手仕事から始まって、電気製品の組み立て、自動車組み立て、インフラ整備ときたけれど、まだここまでしかやってないのです。日本の製造業という1業種見るだけでも、ガラス、紙、機械、金属、精密・・・いくらでもあります。
今後20年、中国の成長を取り込む形で、日本のGDPも急成長すると思われます。日本の株式市場時価総額はいずれ1000兆円になるでしょう。300兆から1000兆だとその差700兆円です。1億人で割れば1人当たり700万円ですね。
700兆円争奪戦はすでに始まっている。
さて、私はいくら取れるでしょうか。
28 アメリカの覇権、日本の復権
「今後日本株は上がる」と言われるが、その道筋をすっきり明快に示してみたい。
60年前の大戦は地球上に残された最後の巨大な陸地、中国を巡る列強の争いだった、という見方も出来る。結局日本は負け、大陸の領土を失い、勝った方の欧米列強も世界中の植民地を失った。
歴史の歯車は1回転し、再び中国を巡る争いに発展してきた。前と今で違うのは日米同盟がしっかりしている事と、日米同盟に対抗できる勢力が見当たらない事だ。となると中国(だけに絞って考える)を囲む大枠(例えばドルと元をリンクさせるとか)は争いの余地がなくなり、安定成長が期待できる。それはアメリカの望む所でもある。
先の大戦の後、大儲けしたのはアメリカであった。日本もヨーロッパも大空襲で全ての工場が灰になってしまい、唯一アメリカだけが無事だったからだ。アメリカは戦後の復興需要で大儲けし、米ドル基軸通貨体制の基礎を築いた。
現在の日本は大戦後のアメリカと似た立場にある。冷戦と共産主義で大陸の大部分(西はドイツから東は中国まで、北はロシアから南はカンボジアまで)は灰になり、さあ、これから本格復興という段にある。なかでも最も勢いがあり、且つ巨大な国は中国だ。消費地アメリカは景気がいい。中国はアメリカにものを売ってドルを稼ぐ。
この中国に最も距離的に近い大国が日本であり、日本が金額ベースで最大の利益を得る立場にあるという訳だ。(アメリカは既に製造業は止めている。ヨーロッパは距離的に遠い)
膨大な受注残を抱える日本の株は今、割安なのだ。「割安である事」と「中国でしこたま稼ぐであろう事」、この2点に着目し、遊資が日本株買いに動きだす日は近い。
改めてブッシュ大統領のメッセージを噛み締めてみた。
Show the flag Yes or No !!
「一緒に戦うのか否か旗幟鮮明にせよ」
29 日米同盟に対する挑戦
第2次大戦になる前、日本は日英同盟を結んでいた。
それがどうにも気に入らないアメリカは日英分離を画策して成功した。そこから日本の転落が始まったのである。
時代は1回転した。日米分離を狙っている勢力はいるのか?
それはそれはうじゃうじゃいる。全世界が日米分離を狙っていると考えれば世界情勢は分かりやすい。
まずはユーロ。ユーロは米ドル基軸通貨体制崩壊を狙って創設された。イラク戦争は米ドルVSユーロというのが本当の姿(詳しくは増田俊男さんHP参照)
中国しかり、ロシアしかり、イスラム圏(アフガンから中東を抜けてアフリカ北半分の巨大なエリア)しかり。
私は選択の余地はないと思っている。
第5章 ショートストーリーズ
30 ユダヤ人――競争に打ち勝つために
私は10年ほど前からユダヤ人に興味を持つようになった。その理由は、「抜きん出る能力の高さはどこからくるのか」、この一点に尽きる。
ノーベル賞受賞者は軒並みユダヤ人だし、そのほか金融、政治、財界、芸術、あらゆる分野をグローバルなスケールで牛耳っている。(最近の例では、アパレルのギャップ、スターバックスの創業者は共にユダヤ人)
この秘密を探るためいろいろな本を読んでみたが、はっきり明確な答えを見つけることはできなかった。
「とにかく行ってみよう」
2001年夏、私は簡単に荷造りを済ませ、ヨーロッパを目指した。ヨーロッパはどこも世界中からやってきた旅行者でごった返していた。私はユダヤ人が関わっていそうなところを積極的に見て回った。
ロンドンではシティへ、ミュンヘンではダッハウ収容所、ベルリンではヴァンゼー会議場、ザクセンハウゼン収容所、アムステルダムではアンネフランクの家へ。
ユダヤ5000年の、苦難の歴史の一端を窺い知ることができた。
いろいろ見た。しかし、まだ霧は晴れなかった。
「なぜ・・・・」
東京へ戻ってから、歴史マニアの藤井君に質問してみた。
「どうしてユダヤ人は迫害されたんですか」
彼の回答は明快だった。
「そりゃぁ異民族で異教徒で金持ちですからね。嫉妬の対象になるんでしょ。おまけに国家の後ろ盾がなかったから、誰も守ってくれなかったんですよ」
10年間霧に覆われていた一つの疑問、
「抜きん出る能力の高さはどこからくるのか」
その答えは
「誰も守ってくれなかったから、日々努力して腕を磨き、頭脳を鍛え、力を付けるしかなかったんだ」ということが分かった。
国境が崩れ、私は今、世界大競争時代を生きている。
この競争に打ち勝つ方法をユダヤ人から学んだ。
「日々努力」
それしかない。
31 韓国人も涙する日本史
2001年夏。イスタンブールのとある安宿の屋上レストランで、2人のデンマーク人学生に声を掛けられた。
「一緒に飲みませんか」
旅行の事や、自己紹介など1通りした後いきなり切り出してきた。
「あなたは韓国好きですか?」
嫌いですと言っても始まらないし、6年掛けて温めてきた理論を使ってみるいい機会だと思い、
「好きですよ」と答えた。
彼はニヤリとして
「あの韓国人は日本の事が嫌いだと言っていますよ。あなたはどうして韓国が好きなんですか?」と言う。
私は歴史を500年遡り、2時間に亘って日本の立場を説明した。(次ページ概要参照)
最後にこう締めくくった。
「韓国が強くなってくれたおかげで、日本はロシアの南下に悩まされないで済んでいる。韓国が強くなってくれたから、日本は平和で安全なんです。韓国が強くなってくれたから、日本は幸福です。だから私は韓国が好きなんです」
次の日、「屋上でビール飲もうぜ!」と話が持ち上がった。言いだしたのはデンマークの学生だ。私は寝たふりをした。どうせ感情的な話になってこじれるだけだと思ったから・・・。
デンマーク人の学生は私が言ったことを全て韓国人2人に話してくれたようだった。
チェックアウトの時、韓国人に呼び止められた。
「あなたに会えてよかった」
彼の目は潤んでいた。私もグッときた。
概要は次の通り
コロンブスの新大陸発見以来、西洋人は東西南北あらゆる方角へ勢力を拡大していった。スペイン、ポルトガルは南米を制覇。イギリスはインディアンを皆殺しにして北米を制覇し、さらにはハワイ、グアム、フィリピンと島伝いに西進して行った。東周りもインド、ミャンマー、マレーシアを制覇、北回りはロシアが極寒の地を進軍し、ついにはユーラシア大陸の東端、ウラジオストックまで制覇するに至り、あと残すは日本とタイ、中国大陸だけということになってしまった。
コロンブスの新大陸発見から400年で、西洋人は世界のほぼ全域を植民地化したということだ。
当時の日本の支配階級は武家であった。一番大事なのは武力だとよく分かっていた。
「武力には武力でもって対抗するしかない」
ユーラシアの東端に到達したロシアは次に朝鮮半島をとるのは既定路線であった。なぜならウラジオは冬になると港が凍ってしまい、使い物にならないからだ。朝鮮半島を取られたら次は対馬、壱岐と島伝いに九州に上陸されてしまう。これは元寇の再来だ、と怖れた。
朝鮮半島を防衛するためには朝鮮半島を強化しなければならない。
しかし、朝鮮は清の属国である。その清はといえばアヘン戦争で香港を切り取られる無様な有様で、しかも、朝鮮半島独立に対して干渉してくる。
「朝鮮半島独立のためには、先ず清を叩くしかない」
これが日清戦争の戦争目的である。
我々の曾祖父の世代は朝鮮半島を強化するために莫大な投資を行った。学校を作り、教育し、港湾を整備し、といった具合に。
しかし、朝鮮半島を取られて悔しがったロシアはドイツ、フランスと組んで(三国同盟)遼東半島をぶんどった。日本はじっと我慢の子で耐えた。そうこうするうちにドイツの山東半島への進出とキリスト教布教に対する反感から、義和団の乱が起こった。これに日本軍は連合軍として参戦し、立派な振る舞いで鎮圧した。イギリスはそれを評価したのと、ロシアの極東覇権を阻止したい思惑から日英同盟を結んだ。
機は熟した。ロシアと一戦交えるしかない。これが日露戦争である。日本は勝利を収めた。しかし、その後もロシアの南下に悩まされ続けた。大東亜戦争で敗北した日本は朝鮮半島から引き揚げたが、そこにロシア軍がなだれ込み日本に代わってアメリカがロシアと戦わねばならなくなった。
この段になって初めてアメリカは気付いたのである。明治以降の日本は絶えずロシアの南下と戦っており、主に自衛のために戦争していたと。
今でも朝鮮半島は地政学的に重要なエリアである。日米軍VS中露軍が激突する場所だからだ。
戦後60年で韓国は強力な国になってくれた。韓国がいるので我々は危険に晒されないですんでいる。
日本はいつでも韓国を支援する用意がある。
32 (戦争目的は)ダラーだよ!
リオデジャネイロのとある安食堂で、チキンの丸焼きハーフとコーラで早めの晩御飯をとっていたら、しゃがれ声の老婆に声を掛けられた。
<あなた、ツーリストかい?>
ユースの近くだったから、旅行者と判断したようだった。いつものパターンで旅行のことや、リオのことなどを話した。ブラジル人にしてはやけに英語がうまいので、どうしてそんなにうまいのか聞いてみた。
<わたしゃぁ、昔、アメリカに住んでたからね。東京にも住んでたことあるよ>
そこからいきなりアメリカの話になった。
<あんた、アメリカどう思うかい?>
「そうですねぇ・・・・」
<わたしゃぁ、ブッシュが目の前にいたら、蹴っ飛ばしてやりたいよ!>
「どうしてですか(驚)」
<あんた、アメリカは何で戦争していると思うかい?>
「そうですねぇ・・・・」
<ダラーだよ!アメリカはいつもそうだよ!あたしの財産も奴らに持ってかれたのさ!あんた、どう思うかい!?>
「もしそうなら日本はドルを沢山持っていますから、アメリカと利害が一致します。ですから私はアメリカを支持します」と思わず本音を言ってしまった。
<あんた!夜の一人歩きは気をつけな!!> 了
33 海外旅行
私は足繁く外国を回ってきた。国境が崩れてますますお金がグローバルな動きをするようになっているので、外国事情に疎いのはかなり不利だと思っているからだ。何かニュースが流れてきても、それがホントかどうかわからないし、投資をしようという場合にも、200カ国あるうちのどこの国のどんな会社に投資すればいいのかも分かるまい。
少し脱線するがゲーテの言葉に耳を傾けて欲しい。
「一つの外国語を知らないものは自国語をも知らない」
日本語は世界的に見れば特殊な言語だ。日本語が主語から始まり、動詞が最後に来るのに対して、殆どの外国語は主語・動詞で始まって、目的語やそのほか何やかんやは全て動詞の後ろに来るようになっている。英語を始めとするヨーロッパ語は全てそうだし、中国語、東南アジア語、南北アメリカもそうだから、主要国の中では日本語と韓国語だけが特別な文法で構成されいるのが分かる。
さて、経済を見る時も外国と比較してみると日本の構造がよく理解できる。外国と比較してみて初めて日本が理解できると言ってよい。例えば「東京は世界一物価が高い」と言われるが、中国や東南アジアに行ってみればたちどころに理解できる。しかし、ロンドンへ行けば、東京よりもずっと高い感じがする。
ユース(ドイツで生まれた世界的な「旅の宿」ネットワークで、大部屋にベットがいくつも置いてあるドミトリーというスタイルが多い)は4000円ぐらいするし、安めのレストランでスパゲティとコーラを頼んだだけで1500円ぐらいする。食事代節約のために小さな商店で缶詰とバナナ1本買っただけで700円ぐらいするから、東京より5割以上高いのではないだろうか。(2001年当時)あちこち回ってみれば東京は確かに世界一高い部類かも知れないが、多分一番じゃないだろう、ということが分かる。
また、日本はだめだとよく言われるが、世界を回ってみれば「日本はどうしてこんなにすごいのだろう」という疑問が湧いてくる。タイはそう思わせる格好の国だ。街のいたるところに日系企業の看板が立っているだけでも海外初の人には驚きだが、自動車から電気製品にいたるまで、日本製品で溢れている。シェアNO1だ。(2001年当時)世界が自由競争をやったらどこの国がどんな産業で優位に立つか分かりやすく見せてくれるいいサンプルだ。
このような現実を実際に自分の目で見ると、新聞、テレビなどのマスコミの煽りに負けないようになる。もちろん見るだけで終わらず、疑問に思ったことは調査して裏付けを取っておかねばならないが。
日本がどれだけすごい国なのか、我々日本人自身、実感していない人が多い。そこで外国人から見た日本はどうなのか、客観的な評価を、元シンガポール首相、リー・クアンユー氏の回顧録に興味深いまとめがしてあったので紹介したい。
「日本は60年前に大東亜解放という目的のもと、戦闘機でやってきて宗主国大英帝国をいとも簡単に叩き潰してシンガポールの新しい支配者になった。その後戦争には負けたものの、次は電気製品や自動車のセールスマンがやってきてシンガポールを席巻した。それが一通り終わったら今度はアニメーションやゲームなどの娯楽産業で三たび我々を驚かせた。1990年代に入って日本は不況で苦しんでいるが、これを克服したらまた我々を驚かせるであろう」というようなことが書かれていた。
リー・クアンユー氏といえば反日的なリーダーとして有名だが、その人をしてこのような評価が出てくるのだから我々日本人はもっと自信を持って堂々としていい。それが出来ないならあなたの頭の中は、マスコミが垂れ流す悲観論(それは資産を安値で叩き売らせるための嘘の情報)に占領されていると言って間違いない。
あなたがもし、日本はダメで未来は暗いと思っているなら、海外旅行にちょっと行ってみるのをお勧めする。
34 反省しろ、だけど後悔はするな
これは大久保淳一トレーナー――天才ボクサー辰吉丈一郎選手の兄貴のような存在だった――の言葉だ。
私は何かしくじった時にはいつもこの言葉を思い出す。後悔してグジグジしていては前に進んでいくことができない。自分で選んだ道でうまくいかなかったら、後悔するんじゃなくて反省して次に生かすというふうに考えれば、苦しい事、辛い事があっても、何かをつかみ取る事が出来たんだから良かったじゃないかと思えてくる。そのように考えられれば、苦しい事も、辛い事も、ドラマの1シーンとして人生に刻み込まれ、ドラマの内容を豊かにしてくれる材料になる。
35 腐ったらアカンで
大阪守口市、天候雨。
王座防衛銭で挑戦者に惨敗を喫した元チャンピオン辰吉さんの状態を心配したファンが、辰吉さんの自宅前に集まって祈るようにすすり泣いていた。私も同じ心境だった。真っ黒な空が落ちてきて、この世が終わったかのようだった。
どの顔見ても死に馬のようだ。
顔を腫らし、青くなった目を隠すため、色の濃いサングラスをかけて姿を現した辰吉さんは、負けはしたもののその輝きを失うことなく、強烈な存在感を放っていた。
辰吉さんはすすり泣くファンにただ一言、
「腐ったらアカンで」
負けて悔しくて一番落ち込んでいるのは辰吉さん本人のはずだ。その辰吉さんに元気付けられて戸惑ったのは私だけではなかったと思う。
「一番辛いのは辰吉さん本人のはずだ。私がめそめそしてどうする」
「腐ったらアカンで」
この言葉はゆっくりだが確実に死に馬を生き返らせた。
辰吉さんは言葉の魔術師でもある。
36 私の金持ち父さん
私は高校3年の時に、就職か進学かという選択肢を突き付けられ、本気で悩んだ。人並みに大学へ行きたいとは考えていたが、その理由は突き詰めれば「学歴が欲しい」であった。どうしても勉強がしたいという訳ではなかったし、高校の時にアルバイトを経験し、仕事してお金を稼ぐことにも魅力を感じていた。
かつて工業高校は優秀な人材を経済界に輩出する役目を担っていて、先輩方がそれぞれの会社で活躍されていた。
時代は変わって、大学へ行くのが当たり前になっていたが、先輩方が残してくれた遺産として、私の母校には一流企業と言われる会社からの求人が沢山あった。卒業したのは1989年であるから、バブル最後の年だったということもあって、引く手あまただったのである。
大学へ行きたい理由が「学歴が欲しい」であったため、親を説得する根拠に欠け、あまり褒められたものではなかった。
高校のある先生なんかはここまで言う。
「お前ら大学行こうなんて思うなよ!勉強したかったら会社に入ってからやれ!社会人になってからが勉強だぞ!大学行ったらいくら掛かると思うか?学費は1年100万、生活費100万として年間200万だ!4年だと800万だぞ!親にそんな大金使わせるな!お前らは大学行かんでもいい会社に就職出来るんだぞ!大学なんか行かんでいい!就職しろ!」
就職したら学歴はないが、一流企業社員という世間体が手に入る。
学歴、仕事、お金、縦社会の重圧、ホントは遊びたいのだが・・・。様々な価値観の中で揺れ動いたが、先生にはっきりと言われて不真面目な選択肢は除外せざるを得なくなった。
そんな訳で高校三年の夏に就職を決意した。方向性が決定すると、将来自分がどうなっているか考え始めた。1年先、5年先、10年先・・・・お先真っ暗な気がした。高卒でそんな一流企業に入ってもたぶん社長にはなれないだろうな、と思ったからである。
親戚のおばさんたちは「ボーナスも退職金も沢山もらえて左団扇だねぇ」と目を細めて自分の事のように喜んでくれたが、おばさんたちは私の気持ちを全く理解していなかった。
お先真っ暗な事をはっきりと認識して「ではどうすればいいか」考え始めた。
日本はバブルでなんだか景気がいいらしい。親戚のおじさんは株で相当儲けているらしい。この2つの事象を見て私の体に電撃が走った。
「これだ!」
これというのは株である。私はすぐに行動を開始した。株の初歩を本で勉強し、親戚のおじさんの所へ毎日のように押し掛けて教えを仰いだ。
身近な所に手ほどきをしてくれる人がいたのは本当に幸いであった。私は株に出会えて嬉しかった。大金持ちになれる可能性が開かれたからだ。勉強していくに従い、株で稼ぐのは簡単なことのように思えてきた。実際の株価チャートを使ってやるテレビゲームで10億円作り、ゲームを終了させるのも簡単だった。
「株なんていう難しそうな世界になんで18歳で入っていけるの?」と大人からよく質問されたが、私は株については「難しそう」とは思わず、「なんて面白そうでチャンスの大きな世界だろか」と思っただけである。私はもともと自信過剰で超楽観的なのである。
金持ち父さんの言葉を借りて付け加えると「難しそう」は「お金を失うのが怖い」でしかない。
旭化成に勤めて5年経ち「社内試験4科目合格」という目標をクリアーした私は退職を決意した。
辞めた後の進路を考えている時、邱永漢さんの本に再び出会った。高校3年の時に貯金を決意させてくれたのは邱永漢さんの本だったので、5年振りの再開である。邱永漢さんは私の知りたがっている事を全て教えて下さった。株、お金、投資、起業、経済などなど。
再会が1994年でそれ以来ずっと著書を通じてマンツーマンでレッスンを受けているような感じである。だから、アメリカから来られた「金持ち父さん」の教えに驚くことはなかった。理路整然とすっきりとうまくまとまっているが、知っている事ばかりだったからだ。しかし、私は人並み以上にアメリカに関心を持っていることもあって、引き込まれ、ファンになったのであるが。
第6章 聖戦 甥っ子の仇を討つ
37 お白州で話しましょう
中欧旅行から帰ってきて、身内がトラブルに巻き込まれていると知らされました。いろいろ悩みましたが、ここに公開する決意を固めました。刑事告訴も考えています。
しかし、その前段階として、弁護士資格を持たない一般の人でも出来る「調停」(簡易裁判所に申し立てを行う)という話し合いの場があるので、無料の相談所と相談して何とか示談に持ち込みたい、そのように考えています。
明日より詳細を書き込みますので注目して下さい。皆さんも「訴えてやる!」と思ったことがあると思いますが、どうすればいいか分からない、という世界ですので、私の事例が何かの参考になれば幸いです。
広島にて モリイ
38 医療過誤(*)
7月中旬、姉が男の子を出産しました。母子ともに健康でみんな喜んでいたのです。最近は生まれたらすぐに保育器に入れるらしく、姉の場合も例外ではありませんでした。子供は病院に任せっきりの状態だったのです。
出産から1週間後、「何か」が起こりました。赤ん坊の頭蓋骨が陥没骨折。大人の指3本でやっと隠れるほどの広範囲にわたるもので、赤ん坊は1日中、足を痙攣させ、死線を彷徨いました。すぐに別の大きな病院に搬送され、抗痙攣剤を注入したりして、何とか一命を取りとめました。元の病院はくる病(次ページ参照)だと言い張っておりますが、うちの親族一同誰も納得していません。なのに私が旅行している間、誰も何にも行動していない。「病院が相手だと難しい」とか「大きな権力が後ろにいるから無理だろう」とか「裁判は家一軒買えるぐらいお金がかかり、それで負けたらパーになる」とか・・・・・。無理、ダメ、そういった負け犬の言葉を延々とつなげていくのです。
私はそれにも腹が立ったのです。
(*)医療過誤・・・医師が医療を行うにあたって当然必要とされる注意を怠ったため、患者に損害を与えること。民法、刑法、行政法上の責任を問われる。医療事故。
<<くる病とは>>
ビタミンDが欠乏すると、「くる病」(骨が軟化して変形する病気)といって骨にいろいろな障害が現われてきます。乳児ではビタミンDが不足すると、骨の発育が阻害され、骨へのカルシウム沈着が起きなくなるため、頭の骨が薄くなったり、脊柱が曲がったり、O脚やX脚の湾曲した脚になります。手首、足首が腫れ、歩行や運動能力が低下する場合もあります。また、妊産婦、老人などの場合は、骨軟化症といって、脊髄、骨盤、足の骨などがもろくなったり、変形して疼痛(ずきずきとうずくような痛み)を起こしたり、歩行困難になったりします。
日光の紫外線から、皮下にビタミンDが得られるのですが、日光に恵まれない地方にビタミンD欠乏症である、くる病がよく発生していました。日本では、東北、北陸、の日照時間の少ない地方に多かったのですが、最近ではほとんど見られないくらい、くる病は改善されています。くる病は日光の自然照射により、十分に日光を浴び、ビタミンDを投与すれば治りますが、重傷の場合には、骨が変形し、肺炎を併発したり、筋肉組織までが侵されることもあります。これは北欧の人々に多く見られる症状です。
39 裁判所に相談
子供の経過は順調で、元気になっておりますが、脳の成長と共に陥没部か脳を圧迫し、「脳障害が出る可能性がある」そうです。そうなったら子供の人生も終わりだし、両親も疲れ果てて死を選ぶ可能性ありです。
「とりあえず裁判所に相談に行こう」
私は福山駅近くにある福山地方裁判所に向かいました。以前、競売物件の閲覧に行ったことがあったので、それほど抵抗はありません。近寄りがたい雰囲気がありますが、一つの役所にすぎないわけですから、緊張する必要はありません。
「あの~、ちょっと相談なんですけど・・・・」
「どうされました?」
35歳ぐらいの職員さんは人を射抜くような鋭い目でこちらをみている。
「実は・・・」
一通り事情を説明すると、アドバイスをしてくれた。ポイントをまとめると次のようになる。
① これは医療過誤である。
② モリイが代理で争いたいなら「調停」を簡易裁判所に申し立てることができる。
③ 「調停」はあくまで話し合いの場なので、決着がつかなくても相手方に対する強制力も罰則規定もない。
④ 「調停」が不調に終われば、地方裁判所に「訴訟」を起こせば良い。
⑤ 「訴訟」は弁護士資格がないと証言できない。
約一時間にわたり、丁寧に説明してくれた。もっと詳しいことが知りたければ、県が無料相談所を開設しているので、そこに電話してみるとよい、と言われた。
無料相談所の担当者も親身になって相談に乗ってくれた。まとめると
「医療過誤は密室の出来事であり、原因を証明するのが難しい。専門の弁護士に相談した方がよい。モリイさんが調停をやってみるのもいいが、遠回りになるだけだと思う」と言われた。
私の最終的な結論は
「調停は時間はかかるが、お金はそんなにかからない。賠償金1千万円で2.5万円程度。2千万円でも4万円程度。弁護士を頼んでいきなり訴訟だと、弁護士に約2万円の日当を払わなくてはならない。勝つか負けるか分からないのにそんな大金払いたくない。とりあえず自分で調停をやってみてだめならまた考えよう」
このように考えて、書類集めにかかりました。
① 申し立て申請書(無料)
② 登記簿謄本(相手が法人の場合は必要。法務局で取得。紙に相手方の住所と名前を書いて提出するだけ。1千円)
③ 診断書(骨折後搬送された大きな病院でもらう)レントゲンを見て骨が薄いかどうか、もろくなっているかどうか判断してもらい「くる病ではない」と盛り込むよう依頼。逃げ道を1つずつ潰していく。
後は<<紛争の要点>>をまとめるだけです。
40 紛争の要点を明確にする
1、 平成16年7月、申立人は相手方で男児を出産。
2、 一週間後、申立人は相手方院長から「T君が痙攣を起こしているので、別の大きな病院へ搬送する」と言われる。
3、 出産~痙攣までの一週間、申立人が男児を抱いたのは10分間だけで、それ以外の時間はずっと相手方にまかせっきりの状態であった。
4、 申立人は相手方院長から「くる病ではないか」と言われた。
5、 男児Tは別の大きな病院へ搬送され、「外傷」による「頭がい骨陥没骨折」と診断された。
6、 申立人は到底納得することが出来ない。納得いく説明を求める。あくまでも過失でないと白を切り通すなら、何者かによって暴行されたものと判断し、刑事告訴する考えである。
7、 過失、事故、故意いずれにしても相手方には管理監督責任がある。よって相手方に対し頭蓋骨陥没骨折の損害賠償及び慰謝料として金700万円の支払いを求める。
8、 尚、現段階では脳障害が残るかどうかは未確定であり、将来、障害が出た場合には改めて話し合いを行い、障害の賠償をすることに合意するよう求める。
というような主張をする積もりです。
41 調停 途中経過
進めていくと色々と分からないことが出てきました。
① 搬送先の病院にカルテ、診断書の提出を求めたが、なかなか出してくれない。なぜ?
→無料相談所に電話「自分らで集めても無駄になるかもしれない。必要なら裁判所が病院に提出を求める。極端な話、書類は何もなくてもいい」ということなので、とにかく申し立てすればいいんだ、ということが分かりました。
② 申立人は私でもいいのか、赤ん坊なのか、それとも両親なのか。
→裁判所に電話して確認「基本的には裁判所はアドバイスできない。中立であるため。申立人は赤ん坊本人にするか、両親にするか、片親でいいかはトラブルの内容による。よく検討しないと、請求権がない人が請求していたりすると勝てるものも勝てないとか、請求権がない人が請求しているばっかりに示談が成立しないなど、いろいろ問題が出てくる」ということで進まなくなってしまいました。申立だけでも早くやりたいので、有料相談所で相談(30分5250円)することにしました。
明日、有料相談所に行ってきます。
42 弁護士さんと相談
調停の件を弁護士さんと相談しました。(30分5250円)
弁護士さんがおっしゃることをまとめると、
① これは賠償額数千万円になるかもしれない。
② 素人が下手に示談したら、その後請求できなくなる恐れがある。調停はやめときなさい。
③ 医療過誤専門の弁護士に頼んだ方がいい。紹介する。
④ 全ての医者は事故に備えて保険に入っている。最高額1億円。
⑤ レントゲンぐらいなら借りられると思う。頼んでみればいい。
⑥ それを持って医療過誤専門の弁護士の所へ相談に行くといい。
<私の感想>
1、 おとなしく黙っている人には保険金の支払いはしないのだろう。
2、 勝てる見込みがあるなら訴訟すべき。
3、 問題は弁護士費用。
<私の結論>
「1番のネックは弁護士費用。相談だけなら一万円ぐらいらしいので相談してから考えよう」
43 医療過誤専門弁護士さんと相談
広島市の医療過誤専門弁護士さんに電話して事情を説明しました。おっしゃることをまとめると、
① 証拠保全の手続きをしましょう。
② やり方は説明します。
③ おそらくぶつけたか落としたかしたんでしょう。
④ 後遺症が出るかどうか、今後の経過を見ないと分からないから、なかなか決着しないだろう。
⑤ いきなり訴訟はどうかと思う。まずは資料を持っていき、相手方病院と話してみればいい。
⑥ すぐ認めるかもしれない。
レントゲン、CT(脳の輪切り写真)、エコーのコピーが本日手に入る予定なので、明日、姉夫婦と広島市まで行って、相談に乗ってもらうことにしました。相談無料だそうです。
44 悪の枢軸
広島市まで車を2時間飛ばして専門弁護士さんに会いに行って来ました。
感想を一言でいうと「失望」です。専門弁護士を名乗っていますが、患者の利益代表ではなく、医者の利益代表のような人でした。
1、 聞いた事に答えない。
2、 調停も訴訟もやらないように仕向ける。
3、 骨折に関しては 損害賠償300万だと言う。(死線をさまよい、いまだに抗痙攣剤を毎日2回飲んでいて、いつ発作を起こすか分からない状態なのに・・・)
4、 証拠保全のやり方を聞いたら、ひどく難しい事のように言う。
<私の感想>
「出てくる芽を一つずつ潰していくのが今日あった弁護士の仕事で、 あの人の仕事によって医者が支払う保険金の総額が押さえられているのだろうな」
自動車事故だったら間に警察と保険屋が入り、当事者は任せていても安心なのに、医者が相手だとやられ損になる・・・。これっておかしくないですか?
この問題は「病院が保険をかけている」ところにあると思います。 医療ミスの保険料は患者負担でもいいんじゃないでしょうか。 賠償金は健康保険から支払われるようにする。医者の負担は軽くなります。 賠償金は健康保険で賄い切れる程度に調整し、全国統一基準を作る。ミスした病院は当然ペナルティを受ける。秘密主義を改めれば全国レベルで改善が行われ、単純ミスが減ると思うがどうか。
45 弁護士費用は?
弁護士費用は思っていた範囲の下限でした。
<示談、 調停合わせて>
弁護士費用30万円
成功報酬 約50万円(賠償額300万の場合)
勝てば300-80= 220万が手取りになる。
<訴訟>
示談、調停の場合と同じ。
<後遺症が残った場合の訴訟>(賠償金3000万円とすると)
弁護士費用 250万円
成功報酬400万円
尚、勝つかどうかわからない裁判に250万円も出せないでしょうから、とりあえずは50万円でいい、と言っていました。
46 刑事事件
昨日、Ⅹ産婦人科へ行って、院長(30代後半 男性)婦長、看護師4名から事情を聞きました。
院長以下みんな「分からない」と繰り返すだけだから、
「あなた方の顔は全部覚えたよ。 言っとくが私はしつこいよ。決着付くまでどこまでも追いかける」と言ってやりました。
それでもまだ過失を認めないので、
「過失ではないと言うなら故意だということですね。これは 何者かによって暴行された暴行、傷害事件だ。警察に電話する」と言ってみんながいる前で110番しました。
始め警察は「すぐ行きます」と言っていたのですが、そのうち「別々に話しを聞いた方がいいでしょう」という事になり、私はⅩ産婦人科を後にし、警察署へ向かいました。
一通り事情説明すると「傷害事件で捜査します」と言っていただけました。正式に被害届を出せば刑事告訴完了です。
後は調停、裁判、世論に訴えるということになるかと思います。
「密室でやりたい放題。知らない、分からないで逃げようとしている。許せない」
誠意ある人には誠意ある態度で答えますが、正直さ、誠実さがない人は最低です。
決着付くまでどこまでも追いかけるつもり。
第7章 大家さんへの道
47 競売物件
広島県出身の藤山さんが、競売物件の取得ノウハウを公開して以来、庶民、不動産屋入り乱れて競売物件の獲得競争で熱くなっている。競売物件はとにかく安い。競売スタート価格が市価の約半額だから利回り採算にも十分乗る。今日買えば倍―- きょうばい―― と 戯れに言われるぐらい安い。だが、いい物件は高く入札する人が沢山いるので、そう簡単にはゲットできない。景気も少し持ち直し、財布の紐が緩んだということもあるだろう。利回り無視でとにかく手に入れたいと思う人が大勢出てきた。だからといって 諦めていては笑われる。
私は今、「期間入札」で売れ残った「特別売却物件」、それと銀行の抵当流れの「任意売却物件」(これは競売とは関係ないが)を物色している。特別売却はインターネットで公開されているので、だれでも閲覧できる。例えば「**地方裁判所 競売物件」と打ち込んで検索すればすぐにヒットとする。銀行の抵当流れ物件は銀行にちょこちょこ顔を出していい関係を築いている段階。そのうち情報提供してくれるだろう。
48 ついに中古住宅を購入
<物件情報>
1、 築36年、平屋56平米(増築部分を含めると80平米)土地160平米
2、 土地建物合計107万円
3、 岡山駅まで車で50分、電車だと30分ぐらいか(海の方にある)
4、 自己破産したものと思われる
本日買い受け保証金22万円を支払ました。そうとう悩みましたが
「投資とはお金に関する恐怖に打ち勝つことである」(金持ち父さん)
「 大事なのはあくまで利回り」
というような言葉を思い出して決心しました。
49 売却期日決定
岡山地裁から通知がきました。売却期日が10月27日に決定したそうです。
債権者 国民生活金融公庫
アイフル
債務者 三名
あまり詳しいことが書かれておらず、なんのことかよく分かりません。明日、電話して聞いてみようと思います。
50 所有権の移転
岡山地裁に問い合わせしました。「10月27日は 出頭する必要はありません」との回答もらいました。債権者、債務者で話をつけるようです。その後は「11月5日頃に振り込み用紙を郵送するので、残金を振り込んで下さい」とのこと。振込確認をもって正式に所有権が移転するとのことです。
51 事業計画書
この前、地元の信用金庫に顔を売りに行った時、事業計画書作成するように言われた。プランは重要だと思っていたので作成した。
投資会社モリイ 事業計画
<< 事業内容>>
① 株式投資運用管理
② 不動産の運用管理
③ 著述業
④ なんでも屋
<<具体的方法>>
*株式投資運用管理
株は安く買って高く売る、また、安く買って高く売る、というふうに繰り返していく。最終目標はウォーレン バフェットさんのように投資会社を運営し、いくつもの会社の株式を大量保有し、経営に積極的に関わっていくこと。株を持つのはあくまで手段。目的は会社使って新たなる富を世の中に創造することにより、株式価値を指数関数的に増やすことである。
*不動産の運用管理
①を達成するためには、生活していくベースが必要である。投資の世界は後ろ振り向けば死屍累々死体の山である。一回のミスで死に直面しなくていいように、何回でもトライできるように勤労所得がない状態でも、新たなる富を創造するための時間を確保できるように、不動産を所有し、家賃収入を得る。
具体的には 利回り採算に乗る不動産を積極的に購入していく。対象となるのはおのずと 「競売物件」(特別売却)「抵当流れ物件」「不動産屋からの任意売却物件」となる。法律を利用し、裁判所を味方にしてトラブルがないようにする。
*著述業
これまでの株式投資の経過を本にまとめ年内の出版を目指している。
*なんでも屋
現在一件、調停代理人を請け負っている。この他、人に喜ばれることならどんどん請け負っていく。特に未知の世界には積極的に読み込んで物書きのネタとし、シナジー効果を高める。
52 不動産 全額支払い完了
買付けた不動産の残りの代金85万円を支払いました。
諸経費合計3万350円。
物件価格は107万円なので諸経費ば物件価格の2.8%となりました。
登記が完了したら、強制執行、立ち退き費用、リフォーム代がかかってくるかもしれません。
<諸経費 内訳>
住民票2通 300×2=600円(買受け時と登記用)
登記簿謄本 300円(物件の住所がある法務局で取得)
固定資産 評価書 300円(物件の住所がある市役所で取得)
所有権移転免許税 25400円
抹消登録免許税 2000円
嘱託書送付料 560円 これらは裁判所で支払う
登記済み証返送料 440円
買受け人への送料 1050円
難しいことは何もありません。ただ支払うだけです。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
元の所有者がそのまま住んでくれれば、リフォームもいらないし、都合がいいかと考えていましたが、自己破産した人から家賃を回収するのは至難の技とのアドバイスを受け、甘い希望を抱いていた私は路線変更を強いられそうです。ま、元の所有者(現在住んでいる)と話してみないと分かりませんが。
53 元の所有者と交渉すべき?
元の所有者と明け渡しについて交渉すべきでしょうか?今、一番悩むことですが、これは情を消して事務的に進めるべきだと思いました。
理由1 交渉して入居者が「毎月家賃を支払います」と言ったとしても、自己破産した人から家賃を回収するのは至難の業。
理由2 相手が暴力を行使する人間だったら命取り。
というわけで、「引渡命令」→「執行文付与の申立」→「強制執行」→「リフォーム」→「入居者を探す」というふうに進めようかと考えています。
54 大家さんへの道 一歩前進
2週間ほど前、岡山市役所の用事のついでに、たまたま見つけた不動産屋入って相談をした。元の所有者と私との間に入ってもらえないかという相談をした所、断られてしまいデッドロックに乗り上げていた。なんだかんだで所有権が移転してもう1ヶ月も経っていることに焦りを覚えた私は「間に入ってくれそうな不動産屋の探し方」に無い知恵を絞った。
「そうだ、不動産、岡山市という2つのキーワードでネット検索をかけて良さそうなところに電話をかけてみればいい。この方法ならわざわざ岡山市まで不動産屋を探しに行かなくてもいいから効率的だ」
思いついてみればなんてことはない方法だが、これが思いつかなかったばっかりに物件を1ヶ月遊ばせてしまった。過ぎ去った時間分もう取り戻せない。
「これこれこういう理由で間に入ってもらえそうな不動産屋さんを探しているのですが」 「そうですか いいですよ」
社長は瞬時に判断してOKを出してくれた。さっそく車を3時間飛ばして資料お渡しした。今後の進め方はこうなる。
1、 元の所有者に賃貸契約(又は出ててもらう)する気があるか確認。
2、 賃貸契約どおりに家賃が支払われれば問題ないが、滞るようなら強制執行となる。
3、 リフォーム、別の入居者を探す。
55 大家さんへの道 また一歩前進
今日、不動産屋の社長から電話があった。
「相手方は出ると言ってますよ。できれば年内ですが、年越しするかもしれません。少しずつ引越しをしているようです」
出ると言われるのも寂しいものだが、それならそれでもいい。私はこう言った
「年超すのは構いませんから、はっきりと日付を決めて下さい。こちらも予定が立ちませんので」
「そうですね。また確認して電話します」
しばらくすると、社長から電話があった。
「1月20日までに出るそうです。鍵をうちに持ってくると言っています。鍵はうちで預っておけばいいですか」
「はい、お願いします」
ということで、1月20日までに元の所有者は出ることが決定しました。
自叙伝
社会人になってからの歩み
第8章 上海探究語学留学編
56 保護から飛び出す
ここでは社会人になってからの主な歩みを書こうと思う。
社会人になってから16年の歳月が経過したが、舗装された道路を避けて、険しい道を歩いてきたつもりだ。表から裏まで知り尽くした社長さんたちには及ばないが、自分の中では精一杯挑戦してきたつもりだ。
工業高校卒業した後、倉敷にある旭化成という一部上場の大手化学会社で化学プラントのオペレーターをやっていたのだが、5年半勤めた後、退職させてもらった。「 社内試験4科目全てに合格するまで辞めない」という、いとこの姉さんとの約束を果たしたら、それまで押さえ込んでいたものが突如噴出し始めたのだ。「寮生活の全てが嫌だ」とか「僕を振った彼女の顔を見るのは耐えられない」とか「給料安くて我慢ならない」とか・・・。
積極的な理由としては「上海で一旗上げたい」というのがあった。もうひとつ「海外旅行にはまった」というのもある。とにかく海外を見て回りたい、という強烈な想いがあったが、旅行に行きたいから辞めるとはとても言えなかった。有給休暇を使いながらちょこちょこ行くことは可能ではあっただろう。しかしいつでも使える貯金はゼロに等しく、給料、ボーナスでやり繰りしながらというのはまどろっこしくて選択肢にはなかった。私には合わせると300万円ぐらいの社内積立預金と持ち株会の株があったのだが、これは退職するか、家を立てるかでないと引き出せないルールになっていた。
「やめて 社内貯金で海外へ行こう」
いつしか気持ちは固まっていた。
会社を辞めたいこと、上海へ語学留学に行きたい事を両親に話すと父は理解があり、「辞めたければ辞めろ」とかなりあっさりしていた。母は正反対で猛烈に怒った。「折角いい会社に入ったのに」というのがその理由であるが、「外から見るのと中で見るのは全然違う。それに僕にはやりたいことがある」と言葉を尽くして説明したが、いつまでたっても平行線であった。「安定した道を歩いてほしい」 という親心だったと思うが、私は「いい子」ではなかった。
1994年10月。旭化成を退社し、上海の華東師範大学の漢語コースに入学手続きをとった。「上海で一旗上げたい」などと言っても、言葉も出来ないのでは話にならないからだ。
学費は半年で2000米ドル、寮費が二人部屋で1日3米ドルぐらいだっただろうか。
退社したものの母とけんかしていたので、実家に帰りづらかった。そのため退社してからも、1ヶ月会社の寮でいろいろな本を読んで過ごした。と言うよりは、お金、経営、起業に関する本を貪り読んで、これから世間の荒波に個人で立ち向かうにはどうしたらいいのか、もがき苦しんでいた。
退社して2週間も経つと、「あれ、まだいたの?」 と何人もの同僚から声をかけられたが、「あと2週間います」と答えるだけで精一杯だった。
そして1ヶ月が経過した。車に全ての荷物を詰め込み、寮母さんたちに別れの挨拶をして倉敷を後にし、福山の実家へ向かった。
全てがイヤになっていた会社を離れるにあたっては、すっきりした気持ちよりも、いろいろな保護から飛び出す不安の方が格段に大きかった。それは身体に現れた。胃をやられて口内炎で口の中と唇がボロボロになったのだ。鬱になって女友達が勤めている洋服屋に帰郷の挨拶に行っても一言も喋れず声にならなかった。
「モリイ!大丈夫!?」 という問いかけに対しても一言も返すことができなかった。
57 上海視察旅行
1994年12月。
1か月後に上海留学を控えていた。これから上海に住んで勉強するというのに、私は上海へ行ったことがなかった。
「よし、上海へ現地調査に行こう」
大阪から鑑真号に乗り、船で上海へ渡った。船内には私と同年齢くらいの若者が沢山いて、車座になって夜中まで話し込んでいたが、塞ぎ込んでいた私はその輪に入っていくことが出来なかった。
2泊3日で上海に到着した。
下船したとたん、何かが変わり始めた。倉敷という片田舎の小さな町から「大陸」という大きな舞台に乗り込むことで、魂が解き放たれ、躍動し始めたのだった。急激に積極性が前面に踊り出てきた。
浦江飯店という安宿に泊まることにしたのだが、この経験が私の脳に強烈な刺激を与えた。倉敷という地方都市で会社と寮をひたすら往復していた私が今までに出会ったことのない種類の人たち(カメラマン、靴の輸入に来ている人、歴史に異常に詳しい人、大学生という職業の人、宿の主的存在の人など)に出会い、話しをしたことが純粋無垢の脳には強烈な刺激であった。人それぞれいろいろな生き方があって会社勤めだけが仕事ではないのだなと。
私は警戒心なるものも持ち合わせていなかった。それを示すエピソードを一つだけ書こう。
私は肩に掛けるバッグ一つで上海へ行き、バックから必要な物を取り出して街へ出掛けた。
数時間してから宿に帰るとヌシ的存在の人に呼ばれた。
「お前なぁ、普通、荷物は全部バックにしまって、鍵をかけて外出するもんやで。まあこの部屋に盗むやつはおらへんやろけど、もしもって事があるやろう。それで疑われる人間の身になってみいや」
「はい、そうですね」
私は荷物の殆どをベッドの上に広げ、バックの口も全開のまま外出していたのだった。 この部屋はドミトリーといって、大部屋に数人の人が寝泊まりするタイプの部屋で、不特定多数の人が出入りするのである。今となっては考えられないような無警戒心ぶりだ。
さて 街に出で一番驚いたのは、なんと言っても黄浦江沿いに堂々と並ぶ巨大なヨーロッパ建築群だった。100年経っても色褪せることのない存在感、巨大さ、力強さ、美しさに度肝抜かれた。中国といえばコテコテの中国建築しか頭に無かった私の常識を見事に裏切ったのだった。と同時にヨーロッパの勢力が日本の目と鼻の先まで迫っていたことを肌で感じた。将棋で言えば王手飛車取り、絶体絶命のピンチ。背筋に戦慄が走った。
そのほかには街中で漢字を使って筆談が出来る事にも単純に感動したし、無愛想な店員がお釣りを投げてよこす事にも「本に書いてあった通りだ!」と感動した。
私のチャレンジングスピリットは夜の方面にも発揮された。
街をほっつき歩いていると、おじさんに声を掛けられた。中国語はまだ全く分からなかったので筆談だ。
「&%##& 小姐 %$##$%#$」
何がなんだか分からなかったが小姐とは女のことだろうぐらいは分かった。さらに話しを進めていくとカラオケらしいことも分かった。値段の確認をすると5千円ぐらいという。
「じゃあ、お願いします」と言っておじさんについて行った。
タクシーでカラオケ屋に到着したが、まだ営業は始まっていない様子。待てど暮らせど何も始まらない。おじさんはどこかに電話している。
「場所を変えよう」というので、再びタクシーに乗った。
到着すると、前の店よりは少しはマシなカラオケ屋に着いた。個室に通されソファーに座って待っていると、目付きの悪い女が一人現れた。筆談でいろいろ話してみたが、こちらの望みは叶いそうになかったし、罠にはまりそうな予感がしてきた。私はもう逃げ出したい気分になってきた。ガラの悪い女にそう伝えると、「ちょっと待ってて」と言って外に出た。個室の窓から外を見ると、やくざ風のおじさんが4人立って話しをしている。いよいよヤバイことになってきた。逃げたくても逃げられない。
「バーン!!!!!」
ヨレヨレのシャツにステテコを穿いた爺さんが、一人個室に乗り込んで来て、立ち往生している私の両腕をつかみ、いきなりファーに投げ飛ばしたのだった。
この最初の一撃で私は戦意を喪失し、後は向こうのペースで交渉が始まった。
「私はもう帰る!」
「3万円払え!」
「何で3万?私は何もしていないじゃない!」
「飲み代だよ!」
「私は水しか飲んでないじゃない!」
すると爺さんは外に出て、またヤクザ達と話し出した。
「ここの場所代が3万なんだよ!」
「3万なんて持ってないよ!これ見てよ!」 と言って財布を開いて見せた。こんな事もあるだろうと思って財布には5千円相当の人民元しか入れていなかった。
「それを全部払え!」
私は冒険費用、捨て金だと思って払い、逃げるようにして個室から出た。
店の前に止まっているタクシーに乗り込もうとすると、バックシートの両サイドにヤクザ回り込み、私を挟んで座ろうとしたので、危険を察知した私は一目散に走った。目つきの悪い女と筆談している時に黄浦飯店に泊まっている事を言ってしまったのがまずかった。ヤクザたちは宿まで代金を回収しに行こうと思ったに違いない。
命からがら逃げ帰り、同部屋の大学生と話しをした。彼は私より2歳ぐらい若かったが、 海外旅行馴れしていた。
「それぐらいで済んでよかったね。上海はそんな事するとこじゃないよ」
そこから彼の楽しい話しを沢山聞いた。それはタイだった。雑誌で読んで心惹かれたタイだった。「もう上海なんか大嫌いだ」と思っていた私はタイに飛びたくなった。
「上海からタイまでどのくらいで行けるかなぁ?」
「3、4万円ぐらいだと思うよ」
「ええ! 安いなあ!」
その晩、宿のヌシに「投げ飛ばされたこと」と「タイ」の話しをしたら、
「お前は何しに上海来たんや!お前なんかとっととタイでもどこでもいきやがれ!」と言われてしまった。私は反論出来なかったが心の中で叫んだ。
「ああそうかい、くそおやじめ!おれはタイへ行くぞ!あんたは一生ここで過ごせ!」
次の日、ヌシがいない間に半べそかきながら荷造りした。髭を生やしたやさしい関東のおじさんに聞いてみた。
「僕はタイに行ってみたいんです。タイって行っちゃいけない所なんですか!?」
おじさんは、
「あの人はほんと口が悪いね。タイでもどこでも行きたい所に行けばいいんだよ」と慰めてくれた
私は上海視察をそこそこに切り上げ、中国東方航空に乗り込み、初めてのタイを目指した。
宿のヌシは一言だけいい事も言ってくれたので、それも書かないと不公平だろう。
「中国はな、神経細かい奴はノイローゼになるから残れへんのや。お前みたいにな、少々の事は気にせん奴しか残れへんのや」
58 上海脱出 バンコクへ
バンコク行きを決めたものの、ガイドブックは持っていなかった。
大学生から聞いたのは「とにかくカオサンを目指せ」ということだった。
バンコク到着後、大学生に教えてもらった通りカオサンを目指すべくバスに乗ろうと思っても何番のバス乗ればいいのかわからなかったが、大学生の教えを思い出した。
「手当り次第にバスに乗って、カオサン?カオサン?って聞けばいいんだよ」
私はその通りにやった。
当時のバンコクのバスは飛び乗り方式だった。完全には停止しないのだ。外国慣れしていなかったので戸惑ったが、3台目ぐらいから飛び乗るのも平気になってきた。それどころか下手なアミューズメントよりも面白みを感じた。そうして5台目ぐらいにカオサン行きのバスに巡りあえた。
「この太陽は強烈だなぁ・・・」
露出している肌をジリジリと焦がしていく。
見かねたタイ人男性が私を呼んでいる。
「こっちへおいでよ」
ふと辺りを見落とすと、右側の列に座っているのは私だけだった。他の人は太陽を避けて左側に座っていた。
「こんにちは」
「どちらから?」
彼はタイの大学を卒業し、イギリスの大学に留学すべく手続き中だと言って資料を見せてくれた。
「それはすごいですね」
彼は親切にもカオサンの安宿まで案内してくれた。
「ありがとうございます。あなたの親切に感謝します」
なんていい人なんだ。私はいっぺんにタイが好きになった。
1日300円のゲストハウスに宿とり、バンコクを探検した。さらにバンコクが好きになったのは言うまでもない。
59 いざ上海へ
1995年1月3日、一番大きいクラスのスーツケースに荷物を詰め込み、上海へ飛んだ。ちまちました日本の常識、世間体やら、煩わしい習慣などの目に見えない縛りから解放されるのはいい気分だった。前途洋々である。しかしながら未来を自力で切り開いて行かねばならないことに変わりはなかった。
上海虹橋空港に到着し、タクシーで華東師範大学へ向かった。
留学生楼は15階建てで、立派なビルに見えた。中へ入るとすぐに入寮、入学手続きをするように言われたが、中国語はおろか英語もまともに喋れなかったので困り果てた。そこへ30歳ぐらいに見える一人の日本人男性が現れ「お手伝いしましょうか」と紳士的な言葉をかけてくれた。
「すみません。お願いします」
彼の名はしんさん。アメリカの大学を卒業した後、中国語を身に付けるべく上海へ来た、私と同じクラスの学生であった。30歳ぐらいに見えたが、なんとびっくり私と同い年の23歳だった。
「なんというか、貫禄がありますね」
「はっはっは、よくふけてるって言われます」
ちなみに彼とは今でもメール交換などして交友が続いている。
寮のおばさんに部屋まで案内してもらうと、ルームメイトのふうてん氏が荷解きをして寛いでいた。
「こんにちは。 はじめまして。モリイです。よろしくお願いします」
ふうてん氏は東北大学を卒業した後、ニューヨークで英語の勉強をし、そのあと上海来たらしかった。4月から商社に就職することが既に決まっており、3ヶ月だけの留学らしかった。
「ええ、それでは開校のセレモニーを始めます」
世界各国からやってきた生徒約50人が集まっていた。それまで間近で見たことのなかったブロンド、ブルーアイの男女も10人ぐらいいた。あとは日本人と韓国人が半々ぐらいであった。年齢層も18歳から50歳ぐらいと広いが、20代の若者が圧倒的多数を占めていた。
60 寮生活と勉強のこと
寮には食堂があり、とりあえず食べることには心配なかった。
「モリイ、メシ行こうぜ」
「そうですね。行きましょう」
料理はもちろん中華だ。本物の中華だ。値段は激安でご飯とおかず3品を2人で食べて1人100円ぐらいだっただろうか。毎日のように、うまい、うまい、と食べまくった。
授業は寮から歩いて10分と、少し離れた場所にある教室で行われた。暖房はなく、冷え切っていたが、耐えられないほどではなかった。先生は2人で、1人は会話のレッスン、もう1人は文法のレッスンをしてくれた。 1日2コマ、1コマ90分だ。
会話の方の張老師は最初から最後まで中国語のみで、始めのうちはちんぷんかんぷん(*)だったが、身振り手振りを交えた熱心な教えを受け、だんだん理解できるようになっていった。文法は若い女性の王老師だった。
「あなた達はまだ中国語が分からないでしょう!」と言ってひたすら英語で説明していた。
そのうち生徒から
「私たちは中国語の勉強で来ている。中国語で説明して欲しい」とクレームが出たが、相変わらず英語だった。
英語でも中国語でも浴びるほどの攻撃を受けてもたじろがない準備はこの両老師から授けられたものだ。
*「ちんぷんかんぷん」は 中国語の「听不看不」(ティンプカンプ)「見ても聞いても分からない」からきているらしい。
61 石と油にやられる
「ガリッ!!」
「んん?石噛んだ?」
「まただよ、ああ! 前歯欠けちゃったよ」
留学生楼のご飯には、ほぼ毎回直径1mm弱の黒い石粒が混入していた。すぐに発見できる時もあったが、ご飯と共に口に入れてしまうことも多かった。
その日、少し大きめの石を噛んで私の前歯は欠けてしまったのだ。街にご飯を食べに行って石が入っていたことはなかったから、寮の食堂に問題があったのだと思う。よく気を付けてご飯の中を点検し、石粒を取り除いてから口に運んでも「ガリッ!」とやることが多かった。
始めのうちは「うまいうまい」と食べまくっていた寮の中華も1ヶ月を過ぎると油の多さに辟易するようになった。多い時は油が1cm弱の層になっていて、油の海におかずが沈んでいる感じだった。街に食べに行ってもそういう事が多かった。
食事のたびに油と石の嫌な刺激を受け続け、だんだん食事が喉を通らなくなっていった。これは条件反射であり、食べられなくなったとしても正常なのだと思う。ナチスドイツは反逆分子を捕まえてヒットラーの悪口を言ように誘導し、批判を始めたら電気を流す、というような事をやっていたらしい。すると批判しようとすると条件反射で気分が悪くなり、批判出来なくなるのだそうだ。パブロフの犬である。
そんな留学生楼に何年も住んで本科(4年)を卒業したクラスメート(女性)がいる。脱帽だ。
おっと、愚痴っぽくなってきた。いいことも書いておこう。まず値段の安さは学生という身分にはありがたかった。朝食は肉まん、あんまん、おかゆなどの中から好きなものを選んで食べるのだが、10円か20円でお腹一杯になった。おかゆに石が入っていることはなかった。たぶん鍋の底に沈んでしまうのだろう。肉まんはかなり美味しかったので助かった。オイリーなおかずは食べられなくても、肉まんだけは食べられたから。
2ヶ月に1回ぐらいはテストがあって、ルームメイトと徹夜したりもした。試験が終わるとみんなで昼間からビールで乾杯だ。徹夜明けのビールは効く。部屋に帰ったらバタンキューだ。
私が留学していた1995年はどんどん円高がすすみ、最高値 1米ドル79円を記録した年だった。円が一段高する度に一万円札を両替して、値上がった分の不労所得で高級ホテルへ日本料理を食べに行った。たまに食べる日本料理は特別にうまい。日本料理といってもご飯と味噌汁、さんまの塩焼きぐらいで大いに満足した。それは日本シックを慰めてくれるものでもあった。そういう体験もあって 私の朝食は超保守的だ。東京にいた7年間、毎日ごはんと味噌汁に「アジの開き、ししゃも、納豆」の中から一品選んで朝食とした。炊き立てのご飯に、煮干しでダシをとった作りたての味噌汁にまさる朝食はない、と今でも思っている。
62 エレベーター事件
{エレベーター事件NO1}
私の部屋は13階にあった。いつもエレベーターを使うのだが、これがよく止まった。
ある日、風邪をひいて病院に行ったのだが、寮に帰ってくるとエレベーターが止まっていた。私は両手で顔を覆って天を仰いだ。13階まで歩いて上がらなければならない。13階が雲の上のように感じる。ゼイゼイいいながら階段を上り、部屋に入るとベッドに倒れ込んだ。
{エレベーター事件NO2}
「オウェッ!トイプーチー!」(ごめんなさい)
私は韓国人留学生「朴」から腹に膝蹴りを喰らって咄嗟に謝罪した。
事の成り行きはこうだ。
いつものように1階でエレベーターに乗って13階を押した。 そこへ迷彩ズボンを穿いた朴が乗ってきた。朴は兵役を終えて上海へやって来たと誰かから聞いたし、迷彩ズボンを穿いている韓国人留学生は何人かいたので珍しいものではなかった。
エレベーターに乗り込んできた彼は私にこう聞いた。
「ニイシェンティーハオマ?」
私はこのフレーズの意味がまだよく分からなかった。「お元気ですか」というほどの意味しかないのだが、分からなかったのだ。分からない時、笑ってごまかすのは悪い癖だ。この悪い癖がつい出てしまった。彼はバカにされたと思ったのか、
「シェンマ!」(何!)と瞬間沸騰し、私の肩に両手を乗せ、目にも止まらぬ速さで私のみぞおちに右膝をぶち込んだのだ。こともあろうに私は謝罪の言葉を口にした。
その晩、何故膝蹴りを喰らったのか、その原因について考えを巡らせ、一人で思い悩んだ。こんなこと情けなくて、恥ずかしくて他の日本人留学生には相談出来なかった。今始めて明かすことだ。いろいろと考えてはみたが、まだその時にはハッキリとした答えを見つけることは出来なかった。
「なぜすぐにやり返さないんだよ!」自分で自分を責めた。
のちに日本へ帰っていろいろ調べていくうちに、日本国の姿勢と私のだらしない姿がダブって見えた。
外国に対して堂々と主張することなく、へいこらして脅されるままに金を出し、感謝もされずバカにされている。お手手つないでみんな仲良く、嫌なことがあってもできるだけ我慢して波風立てず、とにかく謝っておけば丸く収まる。強者の顔色を伺いご機嫌を損ねないようにする。「お元気ですか」を覚える前に「ごめんなさい」を覚えていたとはなんとも皮肉な話である。
一ついい例を挙げよう。
1994年、日本の政界は自民党と社会が連立を組んで、社会党党首の村山富市首相が誕生したが、彼は首相になった後、アジア各国に謝罪して回るという挙に出た。普通、世界の常識では「謝る」は「自分の不法行為を認める」という意味であり、案の定、某国から賠償請求されるという失態を犯した。私は謝って回るのをテレビで見ていたが、そんなことには思い至らず、「謝らなきゃしょうがないよな」などと思っていた。人のせいにするのはよくないが、一国の首相がやることであるから、若者に影響を与えないはずがない。だらしのない姿勢を刷り込まれたのだ。 私は吐き気がするほどの自己嫌悪に襲われた。
「畜生!俺はあんたらのクローンみたいじゃねえかよ!あんたらがしっかりしねえから俺はだらしのない人間になっちまったんだよ!」
自分のことは棚に上げて大人たちを恨んだ。このような経緯があって毅然とすることの大切さを学んだ。日本にはびこるいじめの問題は、ヘラヘラせず、刺し違える覚悟で持って毅然として対応すれば大方片が付く。
私の失敗の教訓はなんであろうか。
「毅然とした態度を取らなければならないこと」と「笑って誤魔化してはいけない」ことだ。「笑い」は時に誤解される。外国人慣れしていな人は十分に注意されたし。
日本の事を大体理解した上で、次に韓国のこと考え始めた。うまく考えをまとめるのに5年もかかった。以前、「韓国人も涙する日本史」を書いたが、あれが私の結論である。暴力でやり返して涙さしたのではないので、かなりレベルの高いリベンジになったと満足している。(自画自賛^^)
武力は大事であるが、力で屈服させるだけではいずれ謀反にあう。感服させてこそ偉大だ。
63 ボッタクリ手口 その1
ルームメイトのふうてん氏と外灘(ワイタン)へ出掛けた時のこと。
学生風の若い男2人組に英語で声を掛けられた。よく見ると留学前に上海視察に来た時、親切に道を教えてくれた人だった。
「ふうてんさん、この人は以前私に道を教えてくれた人です」と紹介した。
すると2人組の男たちは「お茶しよう」と言い出した。
私は親切な彼との再会がうれしくてふうてんさんに「行きましょう」と言った。
ふうてんさんも「おお!行こう」と乗り気だ。
彼らはいい店があると言って私たちを案内してくれた。しかし、どう見ても喫茶店ではなく安食堂だ。なんか変だなあと思いつつも「まあ、いいか」とビールやらおつまみやらを注文した。彼らはどんどん注文していくので心配になってストップをかけた。
ビールを飲みながら話しを聞いてみると彼らは上海の大学で建築の勉強をしているという。ビルの絵などを書いて見せてくれたが結構うまかった。
1時間ぐらい話したところで「じゃそろそろ出ましょうか」と切り出した。清算してもらうと400元(4000円)ぐらいだった 一人当たり100元だ。今になって考えてみるとこれは明らかなボッタクリ料金であり、普通の店なら一人20元であろう。つまり2人組の男と店はグルだったのだ。しかし、そこを突いて値切るには中国語の交渉力が必要だが、私たち2人は初級コースに留学したての外国人であり、まったく力及ばなかったし、適正料金がいくらなのかもはっきりとは分からなかった。相場が分からないと値切りは出来ない。仕方なく、
「はい 一人100元です」と言うと2人組は「お金がない」という。ふうてんさんはブチ切れた。
「てめーらから誘っといて金が無いとはどういうことだ!」
ふうてんさんの勢いに彼らたじろいた。ふうてんさんは空手をやっていたらしく、体は頑丈で気も強い。2人組は驚いて、そのうち1人が100元を差し出した。ふうてんさんはもう一人の男を睨みつけて「お前は!」と言った。彼はなんとか言い逃れをしようとしていたが、ふうてんさんは「お前んちまで取りに行く」と言って金を払わなかった方の男を店の外へ連れ出した。
そして3人でタクシーに乗り込んだ。一人の男が助手席で、私とふうてんさんが後ろの席だ。どこへ向かったか覚えていないが男は「こがウチです」と言ってタクシーを止めたその瞬間、ドアを開けて脱兎のごとく狭い路地の中へ消えていった。
寮に帰った後、ふうてんさんと話しをした。ふうてんさんは「奴の大学の前で待ち伏せしよう」というが、私は「もういいよ。100元ぐらいどうってことないよ」と逃げ腰だった。ふうてんさんは
「お前!悔しくねーのかよ!情けねぇ奴!」と侮蔑の目で私を睨みつけた。そこまで言われても私は取り返しに行く勇気を持てなかった。この1件がきっかけになったのだと思うが、ふうてんさんとはちょっとした事でよく揉めた。ふうてんさんが3ヶ月の留学終えて帰国する頃には一触即発の雰囲気であった。今考えてみるとふうてんさんは偉かったと思う。それに引き換え私はだらしのないいくじなしであった。
「同志が戦う時、一緒になって戦わなければ友情は壊れる」
典型的な例ではないだろうか。
64 ボッタクリ手口 その2
旭化成を辞めた最大の理由は外国を見て回りたい、であった。となると上海でひたすら勉強するだけでは当然物足りなくなってくる。
留学から3ヶ月ぐらい経った頃、短い休みを利用してフィリピンへ行くことにした。東南アジアの大陸と陸続きの国はまとめて回れるが、フィリピンは島国なので短い休みのうちに回っておこうと考えたのだった。
上海からダイレクトに行く飛行機はなかったので、厦門経由で行くことになり、折角だから厦門で一泊するようにスケジュールを組んだ。
私は体調を崩し熱を出していた。
「モリイ!大丈夫かよ!」と友達は心配してくれたが、不思議なことに飛行機に乗ると気分爽快になってきた。熱が出るのはこの時だけでなく、初めて視察に来た時も同じく熱が出た。慣れない環境に飛び込んで緊張していたということもあるだろうし 日本にはいない 菌の免疫がなかったということもあるだろうし、刺激が強すぎて知恵熱が出たということもあるだろう。
それはさておき、私は厦門へ飛んだ。昼頃到着したのだが、どこをどう見て回ればいいのか見当がつかなかった。
「厦門はメインじゃないし、まぁいいか」とホテルを探した。
夜は更けた。観光らしい観光は何もできなかったので、せめて飲みぐらいは行きたいと思った。結構大きなホテルだったので、ホテル内に何かそういう店がないかと尋ねると、3階にあるとのことで早速行ってみた。
そこにはカラオケ屋があった。
「またやられるかもしれない・・・」
私は緊張したが、こういった誘惑にはずぐ釣られる。
「ホテルの中の店だから、そう無茶なことしないだろう」と考えて店のドアを開けた。
料金を聞くと時間制限なし200元(2000円)というので、「おっ、安いじゃん」と喜び勇んでソファに座った。
留学して3ヶ月も経つと、ある程度しゃべれるようになっていた。「明日フィリピンへ行くこと」や「自分は留学生である」事などを話した。女の子は2人ついたが、1人は20歳ぐらいで小柄、もう一人は25歳ぐらいで少し大きめだった。
1時間ぐらい経った頃、若い方の子が「あなたの部屋へ行きたい」と言い出した。私は意味が分からなかった。何が目的でそんなことを言うのは聞いてみた。それでも彼女は何も答えない。私は思った、
「僕のことが好きになってくれたのかな。まだ1時間しか経ってないのに・・そんなことはないような・・・でもアジアで日本人はモテるらしいし・・・上海で投げ飛ばされたこともあったしな・・・そんなうまい話はないだろう」と思い直して、
「いくら欲しいの?」と聞いてみた。
彼女は下を向いて恥ずかしそうにしている。
「俺のことが好きなのか」と思い込み、一緒に部屋へ行った。未熟者だったこともあって彼女の本心が見破れなかったのだ。
私は「これは恋愛なんだ」と信じて疑わなかった。ことを終えて彼女は身支度をすませると「2万円」と言ってきた。余韻に浸っていた私は信じられない思いだった。こちらに非はないと思い、次のように攻めた。
「俺は店の中で値段聞いたでしょ!なんであのとき金額を言わなかったんだよ!だから俺は金はいらないと思ったんだよ!」
彼女の口からはぐうの音も出なかった。完璧な理論だ。だからといって簡単には引き下がらない。
「それに俺は金ないよ!」と言うと、彼女はさっきまでかわいらしかった顔を鬼の形相に変えて、私のバックを漁り始めた。そして、
「このカメラ貰う!」と言って、カメラを持って部屋を出ようとした。私は困り果てたが黙っているわけにはいかない。力ずくで奪い返し、彼女を部屋の外へ押し出した。
私の足は震えていた。誰かを呼んでこられたらどうしようと恐れた。彼女が諦めてくれることを願い、覗き窓から廊下の彼女を確認した。
彼女は5メートルぐらい離れてこちらを睨んでいる。 そして部屋のドアに向かって走ってきて、
「ダン!!!!」
彼女は渾身の力を込めてドアに飛び蹴りしたのであった。
彼女はその場を立ち去ったが、私は彼女の気迫にビビった。
「怖い人を呼んできたらどうしよう!」
私は急いで荷物をまとめ、ホテルを出てタクシーに乗り込み、
「できるだけ遠くのホテルへ行って!!!!」と叫んだのであった。
65 ボッタクリ手口 その3
上海は公共の交通機関が驚くほど安かった。
1995年、バスは一乗り5角(5円)だった。2002年に行った時には1~2元(15~30円)に値上がりしていたが、それでも激安だ。タクシーは初乗り10元(100円)30分ぐらい乗っても50元(500円)ぐらいだから、日本と比べると恐るべき安さである。タクシー代とは人件費の固まりないようなものであるから、日本と中国とではそれほど人件費が違うということだ。
外国に行って30分もタクシーに乗ってみれば、そこの国の時給がだいたい分かる。日本で30分タクシーに乗ったら、約5千円かかる。これを基準にして外国のタクシー代と比較すると、およその時給が計算できるというわけだ。
横道にずれ過ぎた。ボッタクリ手口だが、タクシーはひどかった。バスは遅いし、滅茶苦茶に混雑するので、よくタクシーを利用したが、いつもボラれやしないかと心配で仕方なかった。メーターを始めから使わないのは目をつぶるとしても、「メーターで行く」という事前交渉を覆して2倍3倍の料金を吹っかけてくる奴もいた。
厦門での出来事を書こう。
本日はフィリピン出発の日。昨晩の後遺症で目覚めは良くなかった。フライトまであまり時間がなかったので朝食もとらずにホテル出た。タクシーを止めて尋ねた。
「メーターで行ってくれる?」
「好(ハオ)(OK)」と運転手は言った。
中国人の難しいところだが、顔を見ただけでは善人、悪人の区別がつきにくい。私はとりあえずタクシーに乗り込んだ。5分くらい走ったところで、運転手はなぜかメーターを止めた。私は幾多の戦いを経て逞しくなっていた。おとなしくしていると身ぐるみ剥がされることを学んでいた。運転手の行動が私の闘争心に火を着けた。
「メーター起こせよ!」
「50元でいいよ」
「あんた!メーターで行くって言ったじゃねえかよ!」
運転手は無視している。
「起こせって言ってんだよ!」
それでも全く反応なし。
「ガン!ドン、ドン!!」
後ろから運転席を蹴り上げた。しかし何度蹴っても全く反応しない。不気味なゾンビのようだ。しまいには後ろから首を絞めてやろうかと思ったが、あまり追い詰めすぎると逆に噛み付かれる。
「くそっ!」
私はどう対応しようかと策を練った。大体の距離と移動時間から料金をはじきだし、それを払えば良いだろうと考えた。私の計算では20元だった。
空港について運転手に「20元ぐらいだろう」と言うと、「50元だ」と言って聞かない。 すったもんだしていると、運転手は停止位置からバックして車の向きを変え、駐車場から出ようとした。「拉致だ」。私はバックギヤから一速にギアチェンジする、ほんの一秒停止した一瞬を狙ってタクシーから飛び降り、20元を投げつけ、ドアが壊れるんじゃないかというくらい思いっきり閉めた後、怒鳴った。
「***!!******!!**********!!」
(見苦しいので、ご想像にお任せします)
教訓・・メーターがあまり一般的でない国では、始めから交渉した方が後で揉めない。
*「外国でタクシーなんか乗らない!」と言い切ってしまう人も多いが、交渉の練習になるので積極的にトライすることをお勧めする。
上は ダメな例です 真似しないで下さい。
66 激動する日本
私が留学していた1995年は激しく揺れ動く年であった。
<阪神大震災>
「神戸で地震があったらしよ!」
クラスメイトのさんくう小姐からそう知らされても、始めは「あ、そうなの」ぐらいにしか思わなかった。さらに詳しく話を聞くと「ビルも倒れているらしい」ということであった。当時、インターネットなどなかったから情報源はテレビ、新聞、雑誌、電話、手紙ぐらいしかなく、情報不足は寮内の留学生の不安を募らせた。さんくう小姐は関西出身なので、すぐに実家へ電話した。
「うちは大丈夫だったみたいだけど、神戸はたくさん人が死んでるらしいよ・・」
上海のテレビではあまり詳しい報道がされず、どこか人ごとのように思っていたのだが、 何日かすると、実家から新聞が送られてきた。私は我が目を疑った。
「ビル倒壊、5000人死亡」
見るも無残にビルは倒れ、橋は落ち、高速道路の高架はグニャリと横に曲がってしまっていた。私が物心ついてから何度となく大地震が発生していたが、大都市が襲われたのは初めてだった。あまりの被害の大きさに言葉を失った。
<超円高>
バブルが崩壊して5年目だった。株式市場からは一旦身を引き、地力を付けるべく、退社、留学、外国を見て回る行動に出たわけだが、持ち出すお金は円にすべきか米ドルにすべきかは直観で「円で持ち出すと」判断した。経済は縮小していく方向にあると感じていたが、貿易収支は常に世界最高の黒字であったから円は強いと信じていた。そのぐらいの考えしか持ち合わせていなかったが、結果的には当たりであった。当時はまだ財政赤字が大問題になるほどではなかったというのも心強かった。1995年年初、100円丁度で始まり、4月には戦後史上最高値79円まで駆け上ったのだから、4ヶ月で20%もの値上がりだ。為替相場の裏側で何が行われているかなど知る由も無く、単純に日本の価値が上がっているようで嬉しかった。ドルで資金を持ち込んだクラスメイトもいて、彼はドルが値下がりする度に溜息をついていた。前にも書いたが、円で持ち込んだ人達は値上がりの不労所得を満喫した。日本にいたらそのありがたみは味わえなかっただろう。
<地下鉄サリン事件>
「今度は警視庁長官が銃撃されたらしいよ!」
地下鉄サリン事件に続いて長官銃撃に至っては体制側の守りの弱さに愕然とした。
「ある意味すごいね・・・」という人がいたが、一橋大学法学部出身のしょんぷくんは、
「すごくない(怒)!!」と怒りをあらわにした。
バブルが崩壊し、ビルや高架も崩れ落ち、安全神話も崩壊し、私は大手の会社を退職して保護から飛び出し上海にいる。頼る所は何もない。船出したばかりのモリイ号は荒波にもまれ、方向感すら失っていた。
67 中国語学習を終えて東南アジア周遊を決意
「私はなぜ上海にいるのだろうか・・・」悩みは深まっていった。
旭化成を退社した最大の理由は、本音を言うと「外国を見て回りたい」であった。ならばワールドツアーに出かければよかったのだが、個人で世界を回るやり方も勇気も行動力も持ち合わせていなかったので、ひとまず上海に中国語の勉強をしに行く事にしたわけだ。 それに世間体を気にして「旅行に行きたい」とは言えなかったというのが大きい。2番目の理由は、中国の時代が来ることを確信していたので、中国株ででっかく稼ぎたいなら中国内部に潜り込み、舞台裏をつぶさに観察しなければならないだろうと思っていたからだ。もう1つ、上海で一旗上げたいという願望があったが、それはとりあえず横に置いておこう。というようなわけで中国語の勉強をするモチベーションは低かったことをここで白状する。半年ほど経過した頃、これ以上勉強を続ける気力を失いかけていた。中国語のスペシャリストを目指しているとか、中国語を活かした仕事をしたいとかいう動機があれば頑張れるのだろうが、私には分かりやすい動機がなかった。勿論、「中国株ででっかく稼ぐために舞台裏を観察したい」「上海で一旗上げたい」という動機は持っていたが、それは分かりにくい動機であった。「どうやって観察するつもりなの?」「どうやって一旗上げるの?」と聞かれてスラスラ答えられるほどの力は無かった。
本国日本は荒れ狂い、私は保護から飛び出して上海にいる。外国人と密度濃く接し日本で育んだ常識という物差しではとても測れない事態に次々と遭遇し、どのように対処すればいいのか判断つかず悩み、アイデンティティを失っていた。荒れ狂う日本の事が理解できないで、外国の事が理解出来るはずもなかった。
寮生活は前述のように、油と石の攻撃でご飯が喉を通らない状態。二人部屋でプライバシーなどなく発狂寸前・・・・。
「もうそろそろ中国を出て、アジアを回りたい」そう強く思うようになっていた。
ある日、張老師の授業中、老師から、韓国人留学生の女性と私とで会話をするように言われた。
私が乗客、彼女がタクシーの運転手という設定だ。
「こんにちは。外灘(ワイタン)までお願いします」
「 あなたは留学生ですか?」
「 そうです。日本から来ました」
「あなたの中国語は大変上手ですね」
私が精神的に安定していれば「謝謝」と返すところだが、私は曲がっていた。
「本当ですか?」
脱線確実の返答聞いて、老師も生徒たちも俄かに緊張した。隣の席のしんさんが呆れ果てて私に小声で言った。
「ばっかだなぁ~・・ありがとうって言っときゃいいんだよ・・・」
私の挑発的な返答聞いた彼女は戦闘モードに突入した。
「ええ!私は上手いと思いますよ!」
「そうですか?」
「あなたは自分でうまいと思わないんですか?」
「思わないね」
「ならば授業が終わった後、部屋に帰って毎日しっかり勉強、努力しなさい!!」
私は彼女の気迫溢れる、畳み掛けるような反撃を喰らい、なすすべなく膝から崩れ落ちた。
老師は間に入って仲裁。私の小脇を抱えて立ち上がらせた。
部屋に帰ってまた葛藤が始まった。
「俺は何しに上海へ来たんだろうか・・・一番の目的は何だ??外国を見て回りたいんじゃなかったのか??ではなぜ上海で中国語の勉強なんだ??中国株で稼ぎたい??中国語は必要なのか??もうある程度喋れるようになったじゃないか!彼女は韓国語の先生になりたいと言っていたな。だから彼女は一生懸命勉強するんだ・・・」
彼女にガツンとやられて決心が着いた。「1年勉強しようと思っていたが、もういいだろう。東南アジア周遊の旅に出よう」
半年分の授業料を払っていたので、後2週間ぐらい居てもよかったのだが、出ると決めたら居ても立っても居られなくなり、数人の友達にだけ気持ちを打ち明け、東南アジアの中心都市バンコク行きを決心。荷物をまとめた。
外はまだ真っ暗闇。迎えのタクシーに乗り込んだのは夜明け前の午前4時だった。
68 東南アジア周遊の旅
天使の都―-バンコク
上海生活半年で私の心はすさみ切った。まず人間が信じられなくなった。街に出ると私の財布を狙う危険分子がウヨウヨしていて、近づいてくる人がみんな詐欺師か泥棒に見え、 危なっかしくて街歩きする気も萎えた。ご飯は食べられなくなって体重が落ち始めていたし、精神的なものを満たす何かが欠けている気がしたし、初めて本格的文系の人達と出会い、話をすることで自分の知識の貧弱さに愕然として傷ついていたし・・・。
心の傷を癒すのにタイは最適地であった。人々は柔らかい微笑みを湛えて歓迎してくれて、中には悪い人もいたが、悪い人は顔に「悪」と書いてあるので分かりやすかった。
料理は魚とご飯をベースにして組み立てられていて日本人の口によく合うし、この点が重要だが油ぎっていなかった。あっさりしたタイのラーメンにナンプラー(魚醤)、唐辛子、ライムを絞っていただいた時、私はタイ料理の虜になった。甘くて、辛くて、すっぱくて、美味しい!! 世の中にこんなうまいものがあったのかと驚き、感動した。
ラーメン、カオパックン(エビチャーハン)、カオマンガイはタイ料理の3大傑作である。(カオマンガイとは蒸し鶏のぶつ切りをご飯の上に乗せ、スパイシーなソースをかけていただくタイ料理)。しかも全部屋台料理だから、2004年9月時点でも一品60円から90円で驚くべき安さである。高くてうまいのは当たり前。安くてうまいから感激するのだ。
タイには心の渇きを癒す宗教もあった。私は特に宗教信が篤いとは思っていなかったが、すさんだ上海からタイに移動してくると、何とも言えない安らかな気持ちになった。それは実家に帰った時のような安らぎであった。それとタイ人は外国人に対して挑戦を挑むところがなくて緊張する必要がなかった。全身の関節という関節を全部外しても寛げた。 料理、人々、癒し、上海とは何から何まで違うのだった。
一番驚いたのは、王様が全国民の尊敬の的になっていることであった。王様を中心に国がまとまっており、年少者は年長者を敬い、大人たちは子供達をかわいがり、世代間の争いがない。どんな小さな商店にも王様の肖像画か飾られていて、仏壇も必ずある。それはバーの中にも必ずあった。私と同世代の若いダンサーたちは、自分のステージが終わると天井のすぐ下に設えられた仏壇に向かって手を合わせ、膝をちょこんと折って祈った。1人だけ特別なのではない。ほぼ全員が祈るのだった。「宗教は?」と聞かれて「無宗教です」と答える人の方が圧倒的に多い日本から来た私は、不思議な気持ちになった後、なんと美しい、うらやましい光景だろうかと感じ、その時に私の中に宗教心なるものが芽生えたのは確かであった。
最も印象的で大きな疑問を抱いたワンシーンの再現しよう。
ある日、日本ならコギャル(死語か)と言われそうな非常に若くて美しい娘と話している時、首にかかるペンダントが気になった。よく見ると肖像画が埋め込まれている。私は気になって尋ねた。
「その写真は誰なの?」
「え?これ?ラマ5だよ」
ラマ5というのは 5代目の王様という意味だ。私はびっくりたまげた。なぜって日本でそういうペンダントをしている人を一度も見掛けたことが無かったからである。ショッキングな出来事だった。単純に王様なんていなくてもいいのではないかと考えていた私は自分の物の考え方を疑い始めた。
「なぜ彼女は王様のペンダントをして誇らしげなのか?どうして私はいなくてもいいと思っているのか?」
簡単に解ける命題ではなく、答えが見つからないもどかしさに苛立ちを覚えた。
タイで心の渇きを癒し、東南アジア周遊の旅に出た。南はシンガポールから北はベトナムまで隈なく回った
そこで見たのは、欧米列強による植民地支配の歴史であり、アジア解放を大義にして戦った日本の歴史あり、その後の独立戦争であり、共産革命の悲劇と、悲劇を終わらせるための悲劇のベトナム戦争であった。
地雷で足が吹き飛ばされた人々、枯葉剤で奇形したのかスケボーで這い回り生命の炎が消えかかっている人、彼は私と同い年ぐらいに見えた。元気に生まれていれば今頃は青春を謳歌していただろうに・・・。両手首両足首を失い、手足が枯れ枝のように細くなったおばあさん。一体誰にこんな酷い事をされたのか・・・。
そんな悲惨な歴史とアンコールワットなどの世界遺産、素晴らしい料理、優しい人々が同居しているエリア、それが東南アジアであった。
語学留学編 完
69 魂の師匠 渡部昇一先生との出会い
上海語学留学中もそうだが、その後東南アジアを回っている時も、私はどこか卑屈であった。胸を張って歩くことが出来なかった。「経済大国の日本人だぞ」という自負がある反面、先の大戦の事で「すまない」という気持ちしか持っていなかったからだ。大した知識も持っていなかったので、議論にさえならず、ただただ言われっ放しであった。
東南アジアを一回りした後、沢山の疑問を抱えて地元福山に戻り、早速本屋へ行って私の疑問に答えてくれそうな本を探した。
1995年は丁度戦後50年ということで、あの戦争とは一体何だったのか、という事をまとめた本が沢山出版されていて、専用のコーナーまであった。私はそのコーナーに引き寄せられた。平積みになった20種類程度の本の中の、ある本に私の目は釘付けになった。
「かくて昭和史は蘇る 人種差別の世界を叩き潰した日本」
表紙には着物をお召しになられた渡部先生が写っていた。私はこのやや過激なタイトルを見て「右翼の親分かな」と思った。「読んでみたい。だけど悪い世界に引き込まれやしないか」というのが正直な第一印象であった。
私は自分に自信を持って、胸を張ってアジアを歩くために必要な理論を身に付けたいと 確かに思っていた。当時、そんなふうに言語化することは出来なかったが、今となってはそれは明らかだ。の本は私の疑問に答えてくれそうだった。私は恐る恐る本を開いた。先生のプロフィールを見ると「上智大学教授」と書かれてある。私は右翼の親分かなと思った人が、実は学校の先生だと知ってホッと安心した。
先生の著書を読むのは中々大変であった。読めない漢字も沢山あったので辞書と格闘しながら読み進めていった。だが、読めない漢字が沢山あったから大変だったわけではない。簡単には受け入れられない理論が次々と私に襲いかかって来たからだ。それは24年の歳月をかけてゆっくりと積み重ねてきた私の常識(それは能動的に私自身で作ったものではなく、学校、テレビ、周囲の大人から与えられたもの)を粉々に粉砕しようとしていた。脳がギシギシと音を立てて軋み始めた。
私は学校では歴史の勉強が嫌いだった。ちっとも面白みを感じなかったからだ。だから世界史はおろか日本史でさえも体系立てて考えることが出来なかったが、渡部先生の本には引き込まれていき、昭和史が初めて本質的な所で理解出来た気がした。前に韓国人も涙する日本史を書いたので、ここでは繰り返さないが、曾祖父、祖父の世代の強さに畏れ、震え、涙を禁じ得なかった。昼に購入した分厚い本を、辞書を引き引き、次の日の明け方5時頃まで掛って一気に読んだ。ご先祖様、諸先輩方の熱い思いを知るにつけ、何度も何度も熱い涙が頬を伝った。
こうして私は渡部先生に傾倒していった。貪るように何冊も読んでいくと謎がどんどん解けていった。王様の事、昭和史の真実、共産主義、日本人の事、韓国の事、などなど。
先生は全ての疑問にお答えしてくれたのだった。私は急に頭が良くなったような気がした。私は嬉しかった。女の人はきれいな洋服がないと幸せではないという。男達はワインがないと人生がつまらないという。私は議論に勝てる理論と知識で内面を磨かないと人前に出られないと感じていたので、理論と知識が溜まっていく事に快感を覚えたのだった。
先生には今までに3通のお手紙を差し出させていただいたが、まだ一度もお会いした事はない。できるだけ早くにご挨拶に行かねばと思っている。
第9章 上京
70 東京へ向けて出発
渡部先生に出会い、私の疑問は大部分解けた。そうすると次はどうするかが問題になる。 調べ物でもあればいいが、それは一先ず終わった。遊んでいるわけにはいかない。
私は福山で就職する気はなかった。上海留学中に東京出身の友達、東京の大学へ行った友達と出会い、話を聞いているうちに、益々東京に惹かれるようになったからだ。
東京は言うまでもなく日本の首都である。政治経済の中心地、文化の発信地だ。
東京で活躍されていらっしゃるし、歌手、俳優、女優、芸能人、プロスポーツ選手、政治家、大企業の本社、大会社の社長、突出した能力を持つ多くの人は東京に住んでいる。
天皇陛下はそのような東京のど真ん中にお住まいになられていて、全てを超越した聖なる
存在であれた。
東京へ行けばすごい先輩方に一歩近づける気がした。
1995年、24歳の夏、結局家出することとなった。行き先は東京。田舎者丸出しで恥ずかしいが、私は東京に憧れていた。しかし母は大反対だった。私は「いい子」ではなかったので喧嘩して押し切ったが、父は「おお!行って来い!」と元気のいい息子に発砲かけた。ちなみに東京へ出た後、7年間一回も家に帰らなかった。
忘れもしない1995年8月15日。庭でバーベキューをして最期の晩餐と相成った。 もちろん仕事など何も決まっていない。住む所も決まっていなかったが、上海で知り合った友達に泊めさせて、と頼んでいた。手持ちの現金は50万円ぐらい。それと持株会で貯めた旭化成の株が60万円ぐらいあった。当面のお金は心配なかったが心細いのは確かであった。
8月16日、青春18切符を使い、鈍行で行くことにしていた。始発電車に乗るために出発は朝4時半だ。家から出る時、両親の寝室へ行って「行ってきます」と言うと父は見送りに出てくれたが、母は出て来てくれなかった。喧嘩していたので見送りなど期待していなかったが、改めて自分の重い決断に武者震いした。
71 派遣のアルバイトで憧れの東京生活
東京ではずっと派遣のアルバイトという雇用形態で仕事をしていた。
「日本に貢献できれ雇用形態などどうでもいいのではないか」と言えば聞こえはいいかもしれないが、本当は派遣のアルバイトの方が受け取る給料が多いから、という理由であった。大企業にはもう何の未練もなかった。
「よく一人で就職も決まっていないのに東京に出てきたね」と驚く人もいたが、「中国で会社を起こしたい」という、雲をつかむような目標に比べれば東京に出るぐらいどうということはなかった。実際選り好みしなければ仕事なんていくらでもあった。
東京では時給1500円からスタートして、最終的には2200円になった。派遣先の会社は大体が忙しいから派遣を雇うので、残業も相当やった。50時間は普通で多い時は100時間を超えていた。残業はやっただけ付くので月収30万から多い時で50万ぐらいあった。田舎に帰った時、よく東京で一人暮らしが出来たな、といろいろな人から言われたが、そういう人は現実が分かっていない。
もっとも、苦しい時期もあった。派遣とは景気、不景気の調整弁みたいなもので、景気が落ち込み始めると、当然のことながら派遣から切られていった。
98年10月、初めて首を経験した。12月には次の仕事が見つかったからいいようなものの、その間、青梅の工場で夜中パソコンの組み立てをやったり、ガソリンスタンドでアルバイトしたりした。不景気を身をもって経験したのだ。相場のどん底判断する力はその時養われたものかも知れない。派遣社員が一人、また一人と切られていくことと、相場が一段、また一段と切り下げていくことは完全にリンクしていたからだ。半導体業界に属していたのも幸いしたかもしれない。株式市場のサイクルとシリコンサイクルは完全に一致しているからだ。
72 仕事、旅行、飲み歩きがワンパターンに
月収の話に戻る。月収は一人暮らしの身には十分であった。だからといって貯金はしていなかった。派遣の給料には保険、年金、退職金、ボーナス全て含まれているのだから、本来なら将来に備えて蓄えていくべきだが、私はそう考えなかった。グローバルなマーケットを理解するためには世界中見て回らねばならないと考えて旅行に精を出していたし、 夢も希望も持てない時期だったので、それを紛らわせるための飲み代に全て消えた。立川の飲み屋街には何百万円落としたか分からない。
というわけで、ドンキを買うときには実は20万円しか貯金がなかった。
「じゃあ、残りの80万円はどこからきたの?」という質問があると思うので、第2章-8でそれに答えた。親から100万円借りたのだが、このレバレッジがなかったら1200万円には到達しなかったはずだ。
東京に住んでいる時に、よく海外旅行へ行った。仕事している時でも盆、正月、ゴールデンウィークの休みにプラス1週間付けて、合計2週間の休みをよく取っていた。
東京では主に半導体製造装置の調整という仕事をやっていたが、自分の担当している機種の生産が予定通り進んでいれば問題ないわけだから、長期休暇が近づいてくると前倒し生産に全力を傾けた。
「2週間分前倒し出来た。2週間休んでも大丈夫という事だな!」などとよく同僚と話していた。前倒しさえできれば後は気になる事はない。有給休暇が足りない時は欠勤扱いにしてもらってロング休暇を取った。会社としては生産が何より大事な事であり、それさえ満たせば遠慮はしなかった。派遣という立場でもあり、会社からどう思われようと出世とは縁がないのだから、周囲のご機嫌などお構いなしだった。統率が取れなくなる事を恐れてルールを厳格に守るよう求める上司もいたが、その上の課長が理解ある人で、時々助け船を出してくれたので救われた。Y課長には感謝している。
東京在住時は、ひたすら飲み、海外旅行と楽しくやっていたのだが、それも5年も過ぎるとワンパターンになり、だんだん嫌気が差してきた。会社を変わるだけでは満足できない、もっと根底から変わること望み始めた嫌気であった。
場所の選択肢としては「東京に残る」「実家がある広島に戻る」「海外へ出る」ぐらいしかないのだが、
1、「東京に残る」は、東京の生活自体嫌になっていたので却下。
2、「実家がある広島に戻る」は、家出して7年も経っていて、その間一度も帰らなかったので合わせる顔がない、という状況。
3、残るは「海外へ出る」しかないのだが、「どこの国へ行くか」「何しに行くか」という大問題があった。
73 憧れのヨーロッパ3ヶ月周遊の旅
東京に出て6年経った2001年。上海B株、香港H株で合計500万円ゲットし、資産総額を再び1000万円の大台に乗せて気を良くしていた。
しかし装置の生産はITバブル崩壊に合わせて除々に落ち込んでいき、2回目の首を宣告された。1か月の猶予があったが、
「軍資金は十分だ。さっさと辞めてヨーロッパへ行こう」
東京から出たくてたまらないという時期でもあり、かねてより回りたかった西ヨーロッパ3ヶ月周遊の旅に出た。
ロンドン、パリ、ニース、ミラノ、ローマ、アテネ、イスタンブール、カッパドキア、エフェス、ブダペスト、ウィーン、チューリッヒ、ルクセンブルク、ミュンヘン、ベルリン、アムステルダム、ブリュッセル、バルセロナ、マドリッド、リスボン、など15カ国、約30都市回った。
西ヨーロッパはギラギラした夏だったこともあるが、強烈な輝きを放っていた。いまだに続く友人も出来た。最高級の想い出だ。
旅行は最高に楽しかった。しかし、これも書いておかなければならないが、よせばいいのに旅行中も株の売買をやっていた。
「パーティーが終わった後はくるりと向きを変えて立ち去らねばならない。長居は厳禁」
これを身をもって知ることになる。
買いで儲けた後は売りに戦略変更するか、不動産などの安定資産に振り向けなければ維持するのは困難。
金庫株が解禁された日本では、インフレとデフレが短期サイクルで交互にやってきた明治、大正、昭和初期、うまくいっていた人の真似をする必要がある。
さて、資産総額を再び1000万円の大台に乗せた私は調子乗って道中株取引をしながらヨーロッパを回った。資金はだんだん細っていったが「100万ぐらいどうってことないさ!」と、損に対して鈍感になっていた。
ヨーロッパから帰路タイに寄り、パタヤでインターネットをやっていると、ビル火災の写真が目に飛び込んで来た。2001年9月11日、 歴史に残る大事件の勃発であった。 株式市場は下げに下げ、私も我慢ならずに損切りした。
3ヶ月の旅行で結局300万円の損失を被った。旅行代金100万円と合わせると400万円消えたことになる。1000万円が3ヶ月後には600万円に・・・。
私は再び一寸法師になった。
74 進路に悩む
旅行から帰ってきて、写真の現像、整理やら、疑問だったユダヤ人について調べたりと一通りやり終えたら、後は株取引と飲みに行くぐらいしかする事がなくなった。仕事探しもやるにはやったが、東京がイヤになっていたので全然力が入らなかった。
「これはいよいよ重傷だ・・・」
客観的に自分を見て、病的になっているのがはっきりと見て取れた
ITバブルがはじけて、あと数年は株で儲けることはできない(空売りをやらないから)と悟っていたのが大きい。だからといって自分で何か会社を起すというのもひどく難しく思えた。やりたい事は色々あったが、それをどのようにすれば実現できるのかが分からなかった。
邱永漢さんは師匠と仰ぐ先生で、 それ迄に2回ほど手紙を差し出させて貰った事があった。1度目は1994年であるから、もう10年近く信奉していることになる。そのはホームページを開設されているのだが、その中で秘書募集の広告を出されていた。これは大チャンスと思ったのも束の間、途方もない条件にさらに自信を失った。
「頭脳明晰、男前で、身長170cm前後・・・」
私には無理だと思って諦めてしまった。私は身長180cmあり、それを削るわけにはいかなかったからだ。それにいろいろ勉強になると思うが、また再び雇われになることに変わりなく、今一納得できなかった。それで悶々としながら月日が流れ、2001年も終わりに差し掛かってきた。
75 靖國神社へ初詣、そこで・・・
2002年になった。私は毎年年頭に「今年の目標」をいくつか上げ、それを友人に公開(宣言)するのを恒例としているが、この年に限っては連発されるべき威勢のいい啖呵が出てこない。正月には御屠蘇、初詣、家族が必要なのと同じく、挑戦する目標も必要だ。目標が無かったのでその年は正月らしくなかった。やや大袈裟になるが日本国も方向性を見失っていた。
9月11日のテロをどのように解釈し、日本は今後どうあるべきか、はっきりと明確な答えを待ち望んでいた。これが分からないことには外国に出るべきか悩んでいた私は身動きが取れない。
テロでもっていよいよ戦争モードに突入という段であり、多くの日本人が行く末を心配していたと思う。
東京在住時、初詣は靖国神社と決めていて、毎年恒例にしていた。正月といえどもそれほど混雑している靖国神社は見たことが無かったが、この年に限っては大混雑、初めて並んで参拝を待った。30分以上は待ったと思う。
英霊に対して何を誓うか、その年の目標がはっきりしていなかった私は教育勅語を暗唱した。
敎育ニ關スル敕語
朕惟フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇ムルコト宏遠ニ德ヲ樹ツルコト深厚ナリ・・・
父母・・・ニ・・・孝ニ・・兄弟・・ニ・・友・・ニ・・・夫婦相和シ・・・學ヲ・・・修メ・・業ヲ習ヒ以テ智能ヲ啓發シ・・・
常ニ・・・國憲ヲ重シ・・・國法ニ遵ヒ、一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ・・・・
爾祖先ノ遺風ヲ顯彰スルニ足ラン・・・・・
朕爾臣民ト倶ニ拳々服膺シテ咸其德ヲ一ニセンコトヲ庶幾フ・・・・
これから何が起ころうとしているのか分からない不安と、偉大なる英霊に対する畏れ、 沢山の人々が参拝に来てくれた感謝の気持ち、善意ある多くの人達との一体感がうれしかったことなどから、途中から涙がぽろぽろと零れ落ち、口はワナワナ、体はガタガタと震え出し、立っていられず震えながらその場に片膝をついた。
このような体験は後にも先にもこれっきりである。それほどまでに弱気、不安が私を支配し、またそれをかき消すほどの大きな喜びを神聖なる場で与えられ、トランス状態に陥ったのだった。
76 師匠 邱永漢さんに活を入れられ蘇る
2002年が始まった。
わらをも掴む思いで邱永漢さんへ手紙を出した。
「秘書にはなれそうもありませんが、どうか側において指導して下さい。給料は10万円もいただければ十分です」
教えを請う立場であるから、無給で、と言えばいいものを10万などとせこいこと書くところが私の弱気をよく表している。
邱さんから直接返事をいただいたわけではないが、しばらくしてから邱さんのHPに、
「あまり他力本願になってはいけない」というような趣旨のことが書かれてあり、これは私の手紙に対する回答だと勝手に受け止めた。すると弱気の虫がだんだん消えていき、ゆっくりだが確実に強気に転換していった。
「もう、打つべき手は全て打った。やり残したことは何もない」と思うと、吹っ切れた気持ちになった。
東京から出たら後は中国しかなかった。本当はイヤでイヤで邱さんへの手紙にも直接中国は嫌だとは書かなかったものの、暗にほのめかすようなことは書いていて、それが原因で採用されなかったのかもしれないという気持ちもあったし、留学中は散々ボラれまくったが、ボラれたお金の300倍ぐらいは中国株で取り返していたため、中国に負けないかすかな自信の様なものも芽生えていた。それに9.11以降、数ヶ月が経過し、日本の行く末がはっきりしてきたというのも大きかった。つまり日米同盟がしっかりしている限りはどこの国も動けないということだ。このベースがはっきりしないことには身動きが取れない。
様々な選択肢の中から「上海へ行く」を選択した。そうと決めたらとあとはドンドン手続きを進めていくだけだ。アパートを解約し、新聞を止め、東京でお世話になった皆さんに片っ端から飲み会をセッティングして別れを告げた。そして2002年の年頭からお預けになっていた目標を宣言した。
「 7年間お世話になりました!僕はこれから上海へ行って世界一を目指します!皆さんも世界一を目指して頑張ってください!」
具体的なことは何も決まっていなかったのでそれ以上のことは言えなかったが、精神は高揚し、居酒屋の天井ぶち破った。
一つ気掛かりなことがあった。それは母のことである。7年間帰らなかったらついに電話しても口も聞いてくれなくなっていたのである。なんとかこの事態を打開する方法はないかと知恵を絞った。
「そうだ、上海旅行に誘おう」
姉に間に入ってもらい、説得してもらった。
2002年6月29日、7年にわたる東京生活にピリオドを打ち、上海へ母と姉を連れて行くべく、7年ぶりに実家のある広島県福山市へ向かった。
第10章 上海探求 職探し編
77 7年ぶりの帰郷
母と姉を上海へ連れて行くべく、7年振りに地元福山へ向かった。
複雑な心境だった。街はどんな風に変わっているだろうか・・・親や兄弟、親戚は変わっているだろうか・・・私の事をどう思っているだろうか・・・。
家出して7年。その間、東京で世界最先端の製造業で腕を磨き、ヨーロッパを回ったり、株で結構なお金を掴んだりして、自分は成長したと感じていた。今までの頑張りの結果を見せれば母も「よく頑張ったなぁ」と言ってくれるだろうと思っていた。
「次は福山、福山です・・・・・」アナウンスが流れる。
私は7年振りに福山に戻ってきた。階段はどこにあるのか、出口はどこか、錆び付いた記憶をやっと呼び起こして、なんとか改札を出た。
「出口がどっちか忘れとるじゃろぅおもうてな、迎えに来たよ!」
7年振りに会った母はそう言った。
私は東京にいる間に福山弁をきれいに消去してしまっていたので、福山弁を理解する脳が無くなっていた。耳から入った福山弁は脳のフィルターに詰まりまくり、うまく処理されないのだ。
「お久し振りです・・・・」顔面をひきつらせながら答えた。
父と母は実家へ向かう車の中で、7年間に起こった出来事を色々話して聞かせてくれた。それは東京では決して耳にすることのない、生々しい人間模様だった。田舎にはプライバシーなどなく、どうやっても隠せないのだろう。
息子がサラ金に手を出し、返済出来ず、親が巻き込まれた人の話。借金が返せず、ヤクザに家を取られた人の話。近所の人が中国人と結婚したが、最近は夫婦仲がこじれてきて破局しそうだとか、どこぞの家が火事になったとか、自殺した人が1人や2人じゃなく沢山いるとか、地元の学校でいじめ殺し事件があったとか・・・・・。
東京都とは別世界であった。いや違う。東京でもそんな話はいくらでもあるだろう。要はどこを見て生きているかという違いであり、母はダメな所ばかり見て生きる人になってしまったらしかった。
「そんな、人の不幸ばかり気にしてないで前を見て生きようよ・・・」
7年も家を開けておきながらあまり偉そうなことは言えない。喉まで出かかった言葉をグッと飲み込んだ。
明日はいよいよ上海へ向けて出発だ。
78 母と姉を連れて上海再上陸
2002年 6月30日、福岡空港から上海へ飛んだ。
世間はワールドカップ一色だったが、テレビに噛り付いていられるほど私には余裕が無かった。
「とにかく動いて挑戦するんだ・・・」
上海虹橋空港から一路「浦江飯店」へ。
バックパッカー御用達の安宿であるが、外見はヨーロッパ建築で素晴らしいし、私がいつもどんな旅行をしているのか見てもらいたいという気持ちもあり、浦江飯店を選んだ。だからと言ってドミトリーに泊まる訳にもいかないのでトリプルの部屋を取ったのだが。(2002年大改装。立派なホテルになり、安宿では無くなった)
7年ぶりの上海は様変わりしていた。近代的なビルが林立し、街は観光客でごった返し、 地下鉄まで走っている。レストランへ行けば先進国と変わらない美味しい料理が食べられ、 中華のレベルも相当上がっていた。もはや料理が油ぎって食べられないということもないし、石が入っていないか心配する必要などなかった。
初日の晩、新天地のイタリアンレストランで食事をした。
「他にお金使うところないんだから、高いワインでも飲みましょう」などと勢いで言ってしまったのがまずかった。清算すると3人で12000円くらい・・・。
新天地は旅行者に大金使わせるだけのサービスと雰囲気を兼ね備えていた。確実にレベルが上がっている。詐欺やボッタクリなどしなくても大金払わせる事が出来るようになっていたのだ。
「確かに上海は高度成長している」
私は実感した。
食事が終わると、上海雑技団を見に行った。7年前(1995年)にも見たことがあったが、その頃はカビが生えた古くさい京劇だった。それが様変わりして超近代的なサーカスに変身していた。ボリショイサーカスや木下サーカスなど見たことはないが、多分そういう最先端を行っている近代的サーカスの手法を取り入れたんだろうな、と思った。
上海雑技団は一見の価値がある。
2泊3日の小旅行を終え、母と姉は帰国した。
私は3人部屋からドミトリーへ移り、今後のことを考え始めた。
79 旅人のメッカ上海
上海の安宿はユーラシア大陸(ユーロ~アジア=ユーレイジア=ユーラシア)横断計画を持つ人たちのメッカだ。
ユーラシア横断、しかも陸路で行くとなると1年ぐらいはかかるので、1年オープンチケットを購入することになるのだが、飛行機の1年オープンは高い。それを船にすると片道2万円と安上がりなため、長期旅行者には人気がある。
その船は上海と大阪を結んでいることもあって、上海を最終地に選ぶ人が多いのだ。
それはさておき、私はドミトリーに移動し、同部屋の人達と積極的に情報交換した。
スペインから出発し、ユーラシアを横断して最終地、上海に辿り着いた人。彼は19歳で海外旅行は初めてだと言った。
マレーシアから出発し、戦争後のアフガンに行って来たという人。彼は中国系マレーシア人だった。
南アフリカから中国語の勉強に来ている人。
これから上海を出発し、ユーラシア横断、その後アフリカまで行こうと計画している人。
そんな旅行者に混じって10人に1人ぐらいは仕事絡みでやって来た人がいた。
アメリカから自転車の見本市にやってきた人。
アメリカを引き上げ上海に居を移し、ビジネスを始めようとしている台湾人。余談になるが、彼は毎晩のように台湾人の女友達と話し込んでいたが、毎日相手が違っていた。上海には台湾人が40万人集結しているそうだが、なるほどと思える話である。
そんな中に、一際異彩を放つ日本人が居た。彼のベッドの周りにはビール瓶がズラリと並べてあり、相当長期間滞在している雰囲気だ。ビール瓶の他にも刀やら槍やら武術家を思わせる道具と、難しそうな本が山ほど積んである。丸顔で長髪を後ろで束ねていて、髭を生やしている。
「何モンなんだ、この人は・・・」
彼の名は「りいてん氏」。なかなか素性を明かさない男であったが、何日も一緒につるんでいたら、少しずつ話してくれるようになった。りいてん氏は私と同い年。水回り品の大手企業の関連会社から、上海に事務所を開設するように言われてやって来たらしかった。 彼は高校卒業後すぐに中国へ渡り、昆明(クンミン)あたりで中国語を勉強し、その後もずっと中国に滞在していたそうで、高校卒業後のほとんどを大陸で過ごしてきたらしかった。
彼は毎晩遅くまで飲んでいたが、朝は早く起きて手続きに奔走していた。
私と似た立場の人もいた。東京で仕事していたが、上海で仕事したいと考えて、職探しに来ていた「ちゃーとん君」。某国立大学を卒業してプログラマーをしていたらしい。彼は上海で仕事することにまだ少し迷いあると見えたので、なんとか口説こうと思った。
「東京で何年仕事しましたか?」
「6年ぐらいですね」
「6年?もう飽きたでしょ?」
「ふっふっふ・・・そうですね」
「僕も上海で仕事探すつもりだから、ちゃーとん君も上海で仕事しようよ。日本帰ってもつまんないって」
私の説得は関係ないと思うが、彼は上海に残ることを決心し、東京のアパートを引き上げに一旦帰国した。
留学仲間の「しんさん」は、留学後、一旦東京へ戻り、大手企業に就職し、海外営業部で5年ほど本で経験を積んだ後、駐在員として上海に再上陸していた。しんさんと数人の日本人の友達が出来たことで、上海で生きていくことが心強くなった。
ある日、深圳(シンセン)で仕事していたという、20代後半の日本人男性「たつさん」と意気投合して、上海中のクラブ(踊る方)を見て回る計画を立てた。店内をチラッと見ただけというのも入れたら10店舗は回ったと思う。その中で1番ムードがあってきれいなのはカルフォルニアクラブ(通称パーク97)。次は庶民的で親しみやすい、あの小室哲也さんがプロデュースしたと言われるロジャムであることが分かった。
日を改め、今度はちゃーとん君も誘って3人でロジャムへ出掛けた。
その時、とても可愛らしい上海人の女の子と知り合いになった。電話番号を交換したが一抹の不安があった。
「悪い女だったらどうしよう・・・」
安宿に帰ってから、たつさんに聞いてみた。たつさんは2年深圳で仕事をしていたので、 最近の中国事情に詳しい。
「あの子は中々かわいいけど大丈夫かな・・・」
「あの子は普通の子でしょ」
「なんで分かるんですか?」
「服装と顔を見ればすぐ分かりますよ」
「はあ、そうなんですか・・・」
私はそれでもまだ不安だったが、なにやら楽しくなってきた。女の子の友達も出来た。同じ方向を向いている友達も出来た。街に出れば楽しい場所、クラブなどがある。7年前は無かった日本料理屋も沢山出来ている。中華も美味しい。
「これなら上海で生活していけそうだ・・・」
私はそろそろ安宿を出て、アパートを探したくなってきた。
80 上海で株式投資塾を始める
安宿宿滞在中、何が出来るか色々と考えていた。例えば親戚の墓石屋に石を卸す商売。空港で携帯電話を貸し出す商売。パン屋、ケーキ屋、喫茶店、レストランなどなど。
一人では出来ないかもしれないが、2、3人集まれば出来るんじゃないかと思えるものもあった。
私は最終的に株式投資塾を開くことにした。2万人ぐらいしかいない日本人を相手にするのはあまり賢い選択とは言えないが、資本もいらず、すぐに始められそうで、前からやりたかったという理由で決めた。
アパートの場所は上海のど真ん中で探していると、地下鉄1号線と2号線が交差するあたり、南京西路が最もふさわしい通りだと思えた。スターバックスあり、中華のチェーン店「小南国」あり、ファッションビルも林立している。その中にレッドチップに上場している中信泰富(コード0267)のビルもあった。南京西路を歩いている人達は外灘とは全く違う。田舎から出てきた観光客ではなく、上海在住のかなり金持ちの人達だった。
スタバにいた日本人親子は駐在員の妻と娘と見受けられた。とにかく綺麗で上品だ。南京西路を走っていたスカイブルーメタリックの車にもやられた。かっこ良過ぎる。
「よし、南京西路でアパートを探そう」
そうと決まれば探し方は日本とそんなに変わらない。街の不動産屋に入っていくつか物件を提示してもらい、気に入ったのがあれば部屋を見せてもらう、という流れだ。
私は南京西路を歩きながら不動産屋を探した。こちらの条件は「とにかく地下鉄駅に近く、内装が綺麗で、教室としても使えそうであること」であった。何軒か不動産屋を回っていると地下鉄石門一路駅(2006年、南京西路駅に名称変更)の真上に立つアパートの一室が賃貸に出ている事が分かった。石門一路駅は地下鉄1号線と2号線が交差する駅から一駅しか離れていない。家賃は3000元(4.5万円)で上海では高めだが、教室として使うなら「それぐらい稼げばいいだろう」と考えて物件に案内してもらった。
築71年、外灘にあるようなヨーロッパ建築で、見た目は素晴らしい。1階には銀行が入っている。戦後初めての証券会社はこのビルに開設されたということで、上海史の生き証人のようなビルである。大家さんは女性の医者というのもポイントだった。部屋は数年前に大規模なリホームがされてあり、近代的だ。茶のフローリング、ブルーで統一された独立したキッチン、シャワー、トイレは6畳ぐらいの大きな部屋にあり、全面にタイルが施されていてセンスがいい。ベッドルームには大きなダブルベッド、大きな洋服ダンスもある。各部屋にエアコン、テレビ、電話ももちろんある。難点としてはエレベーターが小さく、ぎゅうぎゅう詰めで4人しか乗れず、しかも自動ではないから一々運転してもらわないといけない事であった。
「総合判断で合格!」
私はこの部屋の入居者になった。日本と違うのは、敷金は必要だが、礼金、保証人は必要ないことと、前家賃として半年分(物件によっては3ヶ月分)支払わなければならないことであった。
約1か月半お世話になった安宿(浦江飯店、船長酒店)を出て、初めて外国で一人暮らしを始めた。2002年8月中旬の事である。上海の8月は日本と違い毎日雨だ。でも、初めて経験する事の連続で、毎日新鮮な気持ちだった。
アパートを借りるだけなら誰でもできる。株式投資塾をやりたいなら生徒を集めなければならない。ではどうすればいいか。考えられるのは雑誌に広告を載せることと、街で日本人に声をかけること、或いは留学生寮に出向いて宣伝するとか・・・。
営業慣れしていない私は上海ウォーカーという雑誌(フリーペーパー)に広告を載せることにした。宣伝文句を練りに練り、3×5cmぐらいの小さなスペースに収まるように工夫した。料金は250元(3750円)ぐらいだった。期待に胸を膨らませ、月に一度の発刊を待った。
2週間ぐらい待って、やっと発刊の日がやってきた。上海ウォーカーは高級ホテルや日本料理屋、日本人向けのバーなどに置いてある。私は日系の5つ星、花園ホテルへ向かった。ビジネスセンターで上海ウォーカーを手に入れた後、ホテル内の喫茶店へ行き、ケーキとコーヒーを注文して、私の広告を探した。
「あった!」
我ながらインパクトのある広告だ(ブログ第1回目のプロフィールを圧縮した感じ)。
これを読んだ人はきっと驚くに違いない。どのくらいの人が電話してくるだろうか。
次の日、早速電話が鳴った。私のアパートの近くに住んでいる人だったので、近くのスタバで会うことにした。いろいろと話しを聞いてみると、彼は相場にかなり詳しい。どうやら生徒になりたいわけではなく、モリイという人物に興味を持ってくれただけのようであった。
U氏。不動産取引専門家、貿易商、発明家、相場師・・・・・怪しげな肩書がずらずらとあと10個ほど並ぶが、人はよさそうだ。U氏とはこれが縁で今でもお付き合いさせてもらっている。彼は私と同い年だが、高校生の時にテキヤからスタートし、様々なビジネスを経験していた。経験値と湧き出るアイデアにいつも唸らされる。
次に電話をくれたのは竹田さん。26歳の日本人女性だ。なんとびっくり彼女は中国人男性と結婚して上海に住んでいるという。「へぇ?なんで?」と私は驚いた。私が直接接した例としてはこれで3例目だが、3例とも女性側が日本人だった。
彼女は教室を見たいと言うので案内した。
「ここを教室として使っています」
「すごくきれいですね。今度の木曜日、お願い出来ますか?」
「はい、大丈夫ですよ。お待ちしています」
木曜日、第1回目が始まった。興味がないことを一方的に喋ってもつまらないだろうと考えて質問形式にした。質問に一つ一つ答えていくとあっという間に90分が経過し、その間喋りっ放しでげっそりするほど疲れた。こんなこと 1日90分が限界だ。
生徒が沢山集まったらどうしようか、そっちが心配になってきた。
幸か不幸か、竹田さんの後かかってきた電話は問い合わせの電話一本のみで、結局私が株式投塾で稼いだお金は200元(3000円)のみ。しかし貴重な教訓を得た。
1、 マンツーマンで喋るのは効率が悪く、別の方法を考えた方が良いだろう事。
2、 イージーな発想ではお客は集まらない。社会が必要としている物(サービス)を社会が受け入れられる料金で提供しなければならない事。
以上、反省し、積極営業を展開して生徒集めなどしなかった。本を書こうと思ったのは株式投資塾の反省からきている。
「より安く、より多くの人に、より良いサービスを、効率よくする」基本中の基本だ。
プラン、ドゥ、シンク、プラン、ドゥ、シンク・・・・・。計画し、行動し、反省して次の計画を考え、行動し・・・・
小学校6年の時、化学部に所属し、高校3年間と、旭化成で5年半、ひたすら化学をしていた私は実験を繰り返すことに何の抵抗もない。私の頭は加点方式に出来ていて、減点方式ではない。だから失敗は失敗ではなく、行動から何かを掴めば得点なのだ。現状に満足できないから、トライして成長しようとしている、という事だ。
81 チャイナテレコム畏るべし
私は既にインターネットが無い生活は考えられないようになっていた。築71年のアパートにインターネット回線などあるわけがなく、大家さんに断って開設する事にした。工事費は1万円ぐらい。チャイナテレコムに電話すると、日本語堪能な人が対応してくれて、 言葉の問題もなくスムーズに手続きは進められた。上海には日本滞在10年以上という人がたまにいて、普通の日本人以上に日本語が堪能だったりするので驚かされる。
さて、工事が終わると立ち上げ専門の人が来てくれ、ものすごいスピードで設定して帰っていった。おそるべき仕事の速さだ。ところが、次の人にはもうウイルスに感染した。 ウインドウズのあるソフトをダウンロードしている時だった。
「ウインドウズの妨害ウィルスか?ウインドウズは狙われているんだろうか?ウインドウズとの戦いに巻きこまないでよ・・・」
修理代200元なり。
ADSL料金は日本と同じぐらいだった。毎月請求書が送られてくるので近くのチャイナテレコムに支払いに行った。
ある日、店舗に支払いに行って店を出た後、お釣りが1元足らないような気がした。中国で「ま、いいか」などと言っていたら際限がない。意を決して店舗に引き返した。
「お釣りが1元足りないようなんですけど・・・」
担当してくれたおばさんに申し出た。
「そんなことないですよ。ちゃんと渡しましたよ」
まあ、思っていた通りの返答だ。
「 お釣りの硬貨は7元で、私がもともと持っていた3元と合わせたら硬貨が10元ないと おかしい。やっぱり1元足りないですよ」
「ちょっと待っててください」おばさんは責任者に相談しに行った。
しばらくすると責任者が奥から出てきて、
「担当者はちゃんとお釣りを渡していますね」と言い切った。
「なんでそんなことが分かるんですか?」私は疑問をぶつけた。
「ビデオに記録されていますので」
「え?ビデオ?ホントですか?信じられませんね」
「フッフッフッ、ホントですよ」
「じゃあ、記録を見せて下さい。じゃないと信じられません」
責任者は私を奥の部屋に案内してくれた。そこにはモニターと記録装置が置いてあった。 再生が始まるとなんとびっくり、私とおばさんのやりとりする手がモニターに映っているではないか!
「私が230元渡し、あれ?ちゃんと釣り7元貰ってるじゃない!」
その後、おばさんに平謝りに謝ったのは言うまでもない。金銭受け渡しをビデオに録画しているとは・・・チャイナテレコム畏るべしだ。
82 日本語教師
株式投資塾は打ち切ったので、何か仕事を探す必要があった。こんな時手っ取り早いのは日本語教師だ。先進国に留学している人はツアーガイドとかレストランで働くとかなのだろうが、中国で皿洗いやったら月給1万円切る。雇われやるなら中国語に磨きがかかる職を探すべきで、日本語教師は良くないと思ったが背に腹は変えられない。台湾資本の「K日語」という会社の面接を受けた。
私のような経歴で大丈夫なのか、という不安があったが、面接してくれた渡さん(仮名)と次のような話しをして取り敢えず合格になった。
「なぜ上海に来ようと思いました?」
「日本はああいう状態で、人を減らす方向に動いています。40過ぎて肩たたかれても行く所に困ると思います。だから若い人が辞めればいいと思います。私はまだ若くリスクを負えるので辞めて上海に来ました」
「学校で国語の成績はどうでした?」
「中学でも高校でも、国語力が高いといってよく褒められました」
「あ、そう」
しばらくして研修が始まったのだが、日本語の文法には参った。五段活用とか言われても実はまったく知らなかった。中学の国語で習った記憶があるが、テストの時、文法部分は白紙で出したのを今でもはっきり覚えている。
大人になってから改めて説明を聞いてみると簡単なことだったが。
2週間ぐらい研修して授業の日が決まった。K日語は教室を持っておらず、依頼があった企業に出向いて授業する形式だった。私はある台湾系電子基板製造会社へ出向く事が決まった。
生徒は30歳ぐらいの台湾人男性で、1日5時間、週2日というハードなものだった。それは生徒にとってハードという意味だ。仕事が終わった夕方5時から夜10時まで勉強なのだ。そして3か月後の日本語検定で3級を取るように会社から言われているらしかった。
そんなことを言われたら私も焦る。焦りに加えて私は1つ大きな勘違いをしていた。日本語を勉強しているんだから日本語で説明すればいいだろう思っていたことだ。華東師範大学で中国語を習った時、老師が私たちに教えてくれたように全部日本語で説明すればいいと思っていた。だから5時間日本語のみで通した。日本語がほとんど全く話せない人を相手に・・・。
2回授業をした後、渡さんから電話があった。
「ウェイ、ニイハオ」(もしもし、こんにちは)
「あ、モリイ君?」
「はい、モリイです」
「 K日語の渡です。実はねえ、生徒さんが先生変えてくれって言っててね・・・一生懸命やってくれてるのは分かるんだけど、言ってることがよく分からないって言っててね・・・悪いんだけど、また別の生徒さんが見つかるまで待っててもらえるかなぁ」
というわけで日本語教師は2回やっただけで見事にクビになってしまった。
しかし私はそれぐらいでは落ち込まない、めげない。日本語が喋れて国語の点数が良かったら日本語教師が出来ると思ったら大間違いであることに気付いただけでも儲けもんだと思っている(思いたい)
外国人に言葉を教えるには特別な資質が必要であるように思う。それは、
1、 自分が説明している時に、生徒から予想外の質問をされても怒らない寛容さ、優しさ、落ち着き。
2、何時間でも喋れる喉のタフさ。
3、やはり文法に詳しくないとまずい。文法は全部分かっているという自信が無いと、突っ込まれた時に焦り、余裕が無くなって乱れる。
これは今現在NOVAに通いながら、たくさんの素晴らしい先生とかつての自分を比べてみて思うことである。
日本語教師をやって稼いだお金は
時給50元(750円)×10時間=500元(7500円)であります。はい。
83 2002年 聖夜
「はい!それでは、ゴルフ大会を始めます!見事ホールインワンしたお客様には漏れなく バレンタインのボトル、又はいいちこをプレゼントいたします!皆様、ふるってご参加下さい!ボールは5球で100元(1500円)です!」
私は2002年の聖なる夜、上海ビジネスの中心地、虹橋開発区にある某ピアノラウンジに勤務していた。
その日、ママからゴルフゲームの司会おおせつかり、100平米以上ある大きなピアノラウンジの端の方まで届く程度の声で、お客様にゴルフ大会参加を促した。
「はい!100元です。ありがとうございます!はい!こちらのお客様は4名様20球ですね400元です! はい!ありがとうございます!」
これが大好評で20人近くいるお客様全員が参加して下さった。
女の子たちが何も言わないでも協力してくれたのが大きい。
テーブルの上にはローストチキン、サラダ、クリスマスケーキ、シャンペンなどの料理が並び、黄浦江の水面を流れるピアノ曲の調べに乗って、駐在員の皆様がバッティングに興じている。
「モリイ君よ、もっと近くに置いてくれ」
「高田さん、も~、分かりました!大サービス!今夜だけよ!さあ、どうぞ!」
高田さんが打ったボールは真っ直ぐにホールに吸い込まれた。
「よっしゃ」(小さくガッツポーズ)
「すっごーい!高田さん!ホールインワン、おめでとうございます!」
「2本も貰っちゃった。ハッハッハッ」
・
・
こうして聖なる夜は更けていった。
お客様が喜んでくれると私達も嬉しい。
・
・
お店が終わった後、ママお手製の料理をみんなでいただいた。
「このケーキ美味しい!」
「お客様がみんな喜んでくれてよかったね」
「よかった、よかった」
暖かいクリスマスの夜をしみじみと味わった。
84 公安接待
「モリイさん、老板(ラオバン=社長)から電話です」
店長(20歳の上海人)からそう言われて受話器を受け取った。
「おう、モリイ君?すぐにこの前の中華料理屋に来て!」
「はい、すぐ行きます」
かなり焦った様子の社長の声を聴き、用件も聞かずにタクシーに乗り込んだ。
到着後すぐに社長の携帯に電話した。
「社長、モリイです。店に到着しました」
「おう、迎えに出るから待ってて!」
社長は既にかなりの量の酒を飲んでいる様子だが、表情は緊張している。
「今日はどういう宴会ですか?」
「警察の接待だよ」
「警察!?ですか??」
貸切りの宴会場には回転テーブルが置かれ、海老やら蟹やら豪勢な料理がたくさん並べられている。この店はヨーロッパ風の石造りで、3階建ての建物を中華料理屋に改装した高級店だ。芝生が敷き詰められた庭にはラストエンペラーが乗って旅したと言われる蒸気機関車がかっこよく飾られている。そんな高級店だからテーブルの上の料理がいくらするのか見当がつかない。
回転テーブルの入り口に一番近い席には、タキシードを着たオーナーが顔こわばらせて座っていた。私はオーナーの隣に座った。
「我的名字是森近秀光 初次见面 请多关照」(はじめまして森近秀光です。よろしくお願いします)
「乾杯!乾杯!乾杯!」 駆けつけ三杯どころではない。いきなりワイン駆けつけ7杯だ。
この店でウェイトレスをしている社長の愛人――私は親しみを込めて「姉姉」(ジェイジェイ=お姉さん)と呼んでいた――は精一杯愛想を振り撒いて公安の皆様に給仕している。総勢6名の公安の皆様の中に、姉姉と瓜二つのそっくりさんが居たので聞いてみた。
「こちらの方はお姐さんとよく似ていますね?」
すると社長が説明してくれた。
「お兄さんだよ」
「え!?兄妹なんですか??」
後はもう上海語の嵐・・・賑やかを通り越している。
「じゃ、次、カラオケに行きましょう!」と社長。タクシーでフアイハイ路へ向かった。
今度はウイスキーのロックで乾杯だ。
「あんたも女の子選びなよ」と公安の劉さんが私に促したが、
「いやあ、私はいいです」
「あんたが楽しまなきゃ、私は楽しくない!」
「はい・・・そうですね・・・それでは右から2番目の子、お願いします」
私は劉さんに「店を出せ」としきりに勧められた。「私がいるから何の問題もないよ」と。
ベロンベロンに酔わされて店を出た。既に12時を回っているが、ピアノラウンジはまだ開いている時間だ。タクシーで虹橋開発区へ向かい、千鳥足で店に入った。
店には数組のお客様が入っていて、お客様の笑い声と嬌声を聞けば盛り上がっているのが分かる。
私はカウンター奥の調理場に引っ張られて、椅子に倒れ込むように座った。
「モリイさ~ん、大丈夫?」
接客待機中の明子(店の女の子はみんな日本名が付いている)が心配してお茶を持って来てくれた。
「ゴクッ、ありがとぅ。大丈夫・・・」
今度はママが心配して様子を見に来た。
「モリイ君、大丈夫?」
公安接待も立派な仕事のうちだが、豪勢な料理をいただいた上に、女の子がいるカラオケ屋へ行き、悪い気がしていた。私は立ち上がって、
「どぅみません・・・」と言ったが、ロレツが回っていない。
そして、頭を下げたら・・・
「ゴンッ!!」
そのまま頭から床に落ちてしまった。
その晩は泥酔していたので痛みはなかったが、翌朝目覚めて起き上がると、どうしようもなく頭が痛い。手で頭を触ってみると、頭頂部の前の方が少し腫れてたんこぶになっていた。
中国の公安を接待したことがある日本人はそうそう居ないであろう。いい経験をした。
85 歴史論争
ついに来るべきものが来た。歴史論争だ。
テレビで毎日のように戦争映画を使って反日プロパガンダを垂れ流している現状からして、いつか口撃されるだろう事は覚悟していた。論争はピアノラウンジで起こった。
その日、外は大雨でお客様は来ないだろうと読んだママは、いつもより遅い10時に出勤すると連絡が入っていた。当然お客様はゼロだ。お店の女の子6人と店長、ウェイター、計8人の中国人と、日本人は私1人だ。
雑談のさなかリーダー格の恭子が、待遇についての不満をぶつぶつ言い出した。
待遇に関する不満は共通の事だから皆黙って聞いていた。不満の矛先は次第に日本帰りの上海人社長に向けられ、さらに口撃の対象は日本へと向かっていった。そして遂に爆発した。
「日本人はお金も払わずにセックスして、挙句に中国人を沢山殺した!!」
今、自分達が受けている扱いと、中国で一般化されている歴史観とをダブらせて日本人はひどい人達だと言う。
恭子は私に話を振った。ここまで言われたら黙っている訳にはいかない。しかし、皆に分かるように説明しようと思ったら、中国語を使わねばならない。そこにいる8人が少々日本語を話せるからといって日本語で通したら誤解される恐れがある。私は焦った。こんな時黙っていてはいけない。だが私は韓国人向けの歴史認識には自信があったが、中国人向けの歴史認識には自信が無かった。それでも何か言わねばならないとなったら頭にある事を言葉にするしかない。
「中国人だって日本人を沢山殺したよ」
恭子はきょとんとした。まさかそんな反撃を喰らうとは思っていなかったのだろう。
「へ!?いつ!?どこで!?」
「通州事件って知ってる?」
「知らないよ!!」
「北京の近くの通州という街で日本人が中国人に沢山殺されたんだ」
「そんな話聞いたことない!日本人は南京で30万人殺した!!」
「いや、それは事実ではない。それは政府の作り話だよ」
「嘘言わないで!!」
「そう、それだよ!もしも私の話が嘘だと言うのなら、恭子さんが信じている話も嘘かも知れない」
ここまで言ったら恭子はまたきょとんとした。プロパガンダという言葉の意味をよく考えた事はないようだ。ここまで来れば後は私のペースだ。
「世界を見てご覧よ!アメリカはイラクと戦争しているし、アフガンはこの前まで戦争してたでしょ。日本だってアメリカにやられた。広島に原爆が落とされたのはみんな知ってるでしょ?1000年前にはモンゴルに攻められた事もあるよ。イギリス、フランス、いろんな国と戦争したよ。でも、昔の事言ったら切りが無いよ。今は仲良くやってるでしょ。どうして?」私は恭子に話を振った。
「どうしてって・・・・」
私はまた話を続けた。
「お金を稼ぎたかったら、モノを作って外国へ輸出しなきゃならないでしょ。ケンカしてどうするのよ。戦争が終わったら総理大臣同士で話合いをして決着を付けるんだ。中国と日本の間でも決着付いてるよ。田中角栄って知ってる?」
「知らないよ・・・」
「中国は周恩来首相、日本は田中角栄総理、この2人が話し合いをして要求をぶつけあって日中共同宣言を締結し、握手したんだ!」
私はそう言って恭子の手を取り、がっちりと握手した。
恭子の細くて柔らかい手に力は入っていなかった。
しかし、そんな話は納得出来ないというのではなく、頭の整理をするのに時間が必要なだけだった。最後に、
「私は中国と仲良くしたいんだ!」と締めくくった。
8人を前にしてここまで言い切るのは中々勇気のいることだったが、皆静かに聞いてくれた。東南アジアの場合もそうであったが、第2次大戦を境に金儲けの哲学が変ったことを知らない人は、日本企業の進出と聞くと日本軍の侵攻と勘違いして拒絶反応を示す。しかし、しばらく貿易を続けていると、日本は領土的野心や、地下資源を力でぶんどろうと思って進出してきたわけではなく、皆が欲しがる物を作って、それを売ることでお金儲けをしようとしている事が分かってくる。そうすると、日本企業が進出してきた所に富がもたらされ、生活レベルが上がっていくことになるから、反日の声はある日ピタリと止む。
今の中国には日の丸を焼いたりする人が居るらしいが、まあ、あと5年もすればそんな事をする人はいなくなると思う。過激な人を見ると、
「ああ、中国の言論は自由になってきたのだな」と微笑ましく思う。昔は即死刑だったのだから。天安門が血に染まったのはついこの前の話しだ。(1989年)
言論が自由になれば物の考え方が多様になり、初めのうちは混乱するが、まがい物はいずれ淘汰され、本物だけが生き残る。そして本物が一般的な考え方になって定着する。
今は過渡期、生みの苦しみなのだ。
86 新規出店の契約
「モリイ君、明日10時に来てな。明日は契約だからね。絶対遅れないで」
店を閉店し、後片付けをしている時に、社長から電話があり、そう告げられた。
「社長は本気だったんだ・・・」
そう、この前の公安接待は新規出店のためだったのである。
その物件は――本店から車で10分くらいの街から少し外れた所にある。ある大会社の保養所で、大きな敷地の中に宿泊施設や様々な娯楽施設がいくつも建っている。対象物件は以前下見をしに行ったことがあったが、壊れたテーブルや椅子が瓦礫の山のように積み上げられていて、廃墟と化していた。埃の積り方からして2年ぐらい放置されていたと思われる。その日は使えそうな椅子を選別して埃をはたき、使えない椅子はゴミとして山積みし、使えそうな食器を両手に持てるだけ持ち出してお終いにした――その物件だ。
契約の日、本店の前で社長を待っていると、いつもよりきちんとした身なりの社長が現われた。
「おはようございます!」テンション上げて元気よく挨拶した。
「おはよう。すぐ行くから車に乗って」
保養所に到着した。
社長の友達から頂いた黒のロングコートを着ていても、足元から冷えてくるのは如何ともしがたい。
「そろそろ時間だから上着脱いで」社長は静かにそう言った。
社長は非常に緊張していて無駄口は利けない。待ち合わせの時間を聞くこともできず、静かにひたすら待った。
「こんにちは」
迎えの人が1人現れ、緊張した面持ちで挨拶だけして、私達を建物の中に案内した。
「どうぞ、こちらへ」
部屋に入ると回転テーブルにクロスが敷かれていて、これから宴会が始まることを予感させた。しばらくすると4人の上海人が現われた。名刺交換すると皆さんお偉い方ばかりだ。無駄な世間話などなく、お茶だけ頂いて事務的な説明が行われた後、契約書類が社長に手渡された。社長は大事なところだけサッと確認してサインし、バックの中から印鑑を取り出して捺印した。
社長は賃貸契約を交わしたのだ。これから嫌でも毎月家賃を支払わねばならない。となると、店舗を改装し、人を集め、開店準備に何百万円か掛ってくる。
判を押す社長の横顔に一歩踏み込む勇気と決断を見た。
保養所のお偉い方も社長の心情を読み取り、気遣っているのが分かる。みな真剣な表情だ。
「ガタガタ、カチン、カチン・・・・」
ウェイトレスがワゴンに料理を乗せて静かに入って来た。
この音で皆の緊張が少し緩んだきがした。
「乾杯」(カンペイ)
私は赤ワインを一気に飲み干した。そうしなければならないと思ったからなのだが、社長はこう言った。
「今日は無理して飲まなくていいから」
宴会は静かに始まり、静かに終わった。
87 何でこの店で働いているの?
水商売も楽ではない。日本人が上海まで出掛けて行ってやってる仕事がボーイだったら「何で?」と疑問に思うのが普通であろう。その疑問はお客様の頭に直ちに浮かぶようで、しょっちゅう質問された。
「今、仕事を探しているんですが、いい所が見つからないんです」というと皆さん納得はしないがそれ以上詮索しようとはしなかった。が、ある2人には踏み込まれた。
ある晩のこと。
なんでそんな話になったのかは覚えていない。一部上場、食品系Y社の上海支店長にお酌をしている時、こう質問された。
「何でこの店で仕事しているの?」
「今、仕事を探しているんですけど、いい所が見つからないんです」
支店長はしばらくテーブルの上を見つめたまま言葉を選んでいた。
何秒か沈黙が流れた後、こう言った。
「ホントはきれいな女の子が毎日見れるからなんじゃないの?」
支店長の表情には、ある種の羨望と軽蔑がミックスされていた。人間ホントの事を言われると固まる。嘘が言えない人間は特に。
確かにそれは図星であった。私は店で日本語教師をしていた。店が始まってもすぐにはお客様は来ないので、30分から1時間ぐらい4,5人の女の子を相手に日本語を教えるのだ。それは仕事とはいえ楽しかった。
こんな事長くやってちゃだめだろうな、と自分でも分かっているのに、支店長は親切にも1本の剣をグサリと私の心臓に突き刺してくれた。
*
長田さんは常連で、6つの会社を経営している社長さんだ。洋服店、コンサルタント・・・。
長田さんは強情で口が悪く、ママでさえも苦手としていた。でも何故か私には優しく、ちょくちょく呼ばれてお相手させていただいていた。今でもどんな会話をしたかはっきり覚えているのだが、うまく言葉に出来ない。だから途中ははしょる。
お勘定が終わった後、長田さんは連れの日本人女性秘書にこう言った。
「このかわいそうな男に100元くれてやれ」
秘書は社長の財布から100元取り出し、私に差し出した。
私は磁石のN極とN極が反発しあうように後ろに弾き飛ばされた。
「いえいえ、私は頂けません・・・」
いつもチップを配って回る人間は、チップを貰うことを拒絶する。それが政府支給の失業保険であろうとも。
しかし、水商売をやるからにはそんなプライドを持ってはいけないらしかった。
「お前なあ!こういう仕事やっとったら貰わないかん時もあるんや!100元ありゃ、1週間食っていけるだろ!」
店中に響き渡る声でそう言った。
私は胃がねじれるような思いをしながら、膝を折り曲げたまま1歩前進して両手を差し出し、100元を受け取った。
「ありがとうございます」
日本を愛するが故に看過できなかった偉大な先輩の愛は、2本目の剣となって私の心臓を貫いた。
88 敷金を奪還せよ
石門一路のアパートに移り住んで半年が経過しようとしていた。ひとつの区切りではあった。香港で取得した半年マルチビザも切れかかっているし、アパートの契約も切れかかっていたし、いい仕事は見つからないし。
そんな状況で2002年も暮れようとしていた。
荷物をまとめて日本へ帰るにはまだ早すぎた。それに限度と考えていた100万円はまだいくらか残っていた。ビザの延長も出来ない事はない。これらの条件を総合して次のように考えた。
「ピアノラウンジの仕事を続けながら普通の仕事を探そう。アパートを安い所に引っ越せばまだ3ヶ月ぐらいは暮らせる。次の3ヶ月でいい仕事が見つからなかったら一旦引き揚げよう」
というわけで石門一路のアパートは契約更新せず、引っ越す事にした。静安寺にある不動産屋に電話し、担当者にこう言った。
「 1月15日に6カ月の契約期間が終わるので引っ越す事にしました。2ヶ月分の敷金は返ってくるんですよね??」
「ああ、そうだよ」
担当者はぶっきらぼうに答えた。
「いつ返してくれますか?」
私は回りくどい言い方はせず、ストレートにそう聞いた。
「私は年末年始、旅行に行くから不在だ。1月7日にまた電話してきなさい」
春節に長期休暇を取るならわかるが、西暦の正月に長期休暇を取ると聞いて不思議に思った。
「これは面倒な事になってきたぞ。敷金が危ない!」と一瞬頭をよぎったが、取り敢えず7日まで待った。
7日になった。私は不動産屋に電話を掛けた。
「敷金を返して下さい!」きっぱりと言った。
担当者はあれやこれや早口でまくし立てて、分かるように説明してくれない。
「ちょっと待って下さい。私がそちらに出向きますから、そちらで話しをしましょう」
私はそう言った。
到着してから担当者を呼ぶように頼んだが、トイレに行っていると言って出てこない。
15分ぐらい待たされてやっと出てきた。前と違って高圧的な態度だ。
「弱気になったらつけこまれて敷金はぶん取られる」そう思わせるに十分な状況だ。
担当者は説明を始めたが、なんのことはない、まとめればこれだけの事だ。
「1月15日の契約終了前日までに荷物を全部出しておいてください。備品の点検と光熱費の清算をします」
電話でごちゃごちゃ言っていたのは明らかな嫌がらせだったのだ。
「こいつは油断ならない奴だ。しかしこいつには絶対負けない」
私は気持ちを強気モードに切り替えた。
私は1月14日までに次のアパートを決め、引越しも終わらせて担当相呼んだ。
約束の時間になっても担当者が現れないので、電話をしたらまだ向こうを出発もしていない。
「すぐ行くから待ってろ!」逆切れだ。
アパートに到着した担当者は電気製品の動作チェックをしながら、なんだかんだと文句を言い始めた。
「なぜ換気扇の強弱スイッチが利かないんだ」とか、
「なぜここが割れているんだ」とか。
私は一々反論したが、担当者はだんだんエスカレートしてきて備え付けの包丁を手に取り、刃先を私の方に向けて怒鳴った。
「電子レンジはどこへやった(怒)!!」
電子レンジなど元から無い。
「そんなもん元からねえよ!」奴は絶対に私を刺せないと読み切った上で怒鳴り返した。
「元々あっただろう!」
元々という単語を聞いて契約種類を思い出した。書類には備品のリストが書き込まれている。私は書類を懐から取り出し
「ねえよ!これを見てみろ!」と言った。
奴は私が契約書類を持っていないと思っていたようだった。奴は誤魔化しのいやな笑いを浮かべて包丁を置いた。
次に水道、ガスなどのメーターをチェックして、使用分の料金を計算した。それが終われば敷金と相殺して返してくれるのかなと思っていたら、まだ返さない。
担当者はこう言った。
「明日、敷金と鍵を交換だ。私はもう来ない。大家さんと二人で話せ」と。
担当者は返還額を紙切れに書き、署名して私に渡した。そしてもう話はついたんだから契約書は返せと言う。私はそういうものなのかと思って返した。
奴は平然として返せと言うので返したのだが、よく考えてみると返す必要は無かった。次のアパートでは返さなくて良かったので、きっと返す必要のないものなのだ。後から言い掛かりを付けられてはたまらない。自分で保管しておくべきだった。
89 2003年 正月
正月三が日は休みだった。駐在員の皆様は日本に帰国してしまっているので店を開けても仕方がない。1か月振りの休みだ。夜は店が忙しかったし、昼間は昼間で新店の準備のため社長とあちこち飛び回っていた。
私はベッドに横になったまま、今までに起こった出来事を思い出していた。
7月某日。
安宿滞在中、私は食中毒になった。生まれて初めてだ。何が当たったのかはよく分からない。その日は日本料理屋でカツカレーを食べ、コンビニでお菓子とオレンジジュースを買って飲んだ。その位しか口にしてない。夜中12時頃、青年船長酒店のドミトリーで寝ていると、腹に膨張感を覚えた。始めただの下痢だろうと思っていた。その後、夜中の2時までに、だんだん痛みが激しくなり、下痢と嘔吐を繰り返し、あまりの痛さにうめき声を抑えられなくなった。私はそれまで二日酔いで嘔吐したことは数え切れないぐらいあったが、風邪を引いて嘔吐したことは無かった。
<これは何か変だ・・・>
仕舞には腹が空っぽになり、吐く物が無くなり血が出るようになった。
<こんな時間にどうすればいいんだろう>
もうどうにも我慢ならなくなってレセプションへ行った。
<下痢と嘔吐と激しい痛みで死にそうです>
「病院行きますか?」
<はい、行きたいです。どこにありますか?>
「私が案内しますよ」
<ありがとうございます>
歩いて5分の至近距離に救急病院があったのは幸いだった。
吐き気はピークに達し、下痢も止まらない。痛みは強烈で、診察台の上でもんどり打っていた。そこへ医者2人と看護婦一人が現われて、診察台を取り囲み、何か話している。 そしてこう言った。
「あなた、お金持っていますか?」
お金を持っていなかったら、診察は始めないと言うのだ。
<お金?あります>
私は息も絶え絶えにそう言って、財布の中身を見せた。
「よろしい。始めましょう。先ず便を採取して来て下さい」
問診と検便で結果はすぐに出た。
「食中毒ですね。栄養剤、殺菌剤、鎮痛剤の三種混合剤を点滴しましょう。今晩は病院に泊まりなさい」
<はい・・お願いします・・・>
力なく答えた。そして、点滴の針が刺された瞬間から痛みも吐き気も消えた。全身の力は抜け、そのまま朝まで安らかに眠った。
*
10月某日から11月某日。
アパートは旅人の館と化した。それぞれ別の日に、3人の友達が石門一路のアパートに泊まりに来てくれたのだ。
始めに来たのは「あき」。彼とは一年前にイタリアからギリシャへ向かう船の中で知り合った。話が弾んでその後一緒にアテネまで行き、3日間ほど行動を共にした。アテネからの行き先が違っていたので分かれたのだが、彼は1年かけて大陸を横断し、上海へ渡って来たのだった。すごいですね。
次は東京で仕事をしていた時の同僚、西村君。彼は東京を引き上げ地元熊本へ帰ったあと、中国旅行をするためにまず上海に来たのだ。彼は海外旅行は2回目で、まだ慣れていないにも拘わらず、揚子江下りをやるんだと言って内陸の方まで出掛けて行った。私は彼の逞しさに驚いた。彼はメールをほとんどしない男で、2週間ぐらい後、心配した実家のお兄さんが私のところへメールを送ってきた。「連絡が取れないのですが、何か知りませんか」と。
最後が戸祖田君。彼とは一年前にパリの安宿で知り合った。話が面白い人で聞いていると幸せな気分になってくる。政治家を目指しているらしいが、向いているのかもしれない。
さて、彼と一緒にルーブル美術館へ行った時、2人組の日本人女性と出会い、彼が声を掛けて仲良くなった。2時間ぐらい話した後、凱旋門でディナーを共にした。そこまで行けたのはひとえに彼のおかげである。3人を相手に4時間近くも飽きさせない彼の話題の豊富さと面白さと暖かさには脱帽する。女性2人組の内一人は透明感のある綺麗な人で、 私は日本へ帰った後、名古屋まで一回会いに行った。そこで彼氏持ちだと知った。元気してるかな・・・よし、メールで新年の挨拶をしよう。
小島マユコ様
新年明けましておめでとうございます。
早いもので小島さんとルーブル美術館で出会ってから1年過ぎてしまいましたね。
その後変わりありませんか。
さて、僕は今どこにいると思いますか??
答えは上海です。昨年の7月にやって来ました。
この前、戸祖田くんが大陸を横断してうちのアパートに遊びに来てくれたんですよ。
私の18番、鶏がらスープと中国味噌の鍋したり、
コンデンスミルクたっぷりかけたフレンチトースト作ったりしてね。
僕、料理うまいんですよ。こう見えても。
彼氏とはうまくいっていますか??
今年は結婚ですか??
小島さんにとって良い年になりますように。
それでは 今年もよろしく!
モリイ
90 ウォーシーリーペンレン
引き続きベッドに横になったまま、今までに起こった出来事を思い出していた。
宋(ソン)さんとは7月、ヤオハンで知り合った。宋さんはフロアマネージャーをされていて、上海滞在中、公私にわたり相談に乗ってくれた。
ある日、アパートに遊びにおいでと言われたので、上海地図の東の外れにあるアパートまで遊びに行った。鶏肉のぶつ切りとそら豆をつまみに、ビールを飲みながら部屋を見渡すと、塵一つなく整然と片付けられていて博物館のようだ。とても子供がいる家には見えなかった。
「お子さんがいるとは思えないような家ですね」
「子供は保育園に預けていて、週に1回しか会えない」
「でも夜は帰ってくるんじゃないんですか?」
「夜も返ってこないよ」
「え!?夜も預けてるんですか!?」
「私も奥さんも夜遅くまで働いてるからね」
「そうなんですか・・・」
私はてっきり子供は生まれたらすぐに政府に取り上げられて、思想教育されるのだと思ったが、そうではないらしかった。
奥さんと子供の写真を見せてもらい、日本滞在中の話を聞かせてもらいながら楽しく飲んだ。
「今日はどうもありがとうございます。御馳走さまでした」
「上海駅まで送っていくよ」
「そうですか。ありがとうございます」
私達はアパートを出て、バス停の方へテクテク歩いていた。そこへ後ろからパトカーが猛烈なスピードで追いかけてきて、私たちのすぐ横に停車し、一人の警察官が物凄い勢いで降りて来て、宋さんにまくし立て始めた。身分証明を見せろと言っているようだ。宋さんは、
「そんなもん、いつもいつも持ち歩いてるわけないでしょ!!」と反論するが埒が明かない。 しばらくがちゃがちゃ言い合っていたが、そのうち警察は私の方へ向き、
「お前!」と怒鳴った。
私には一切非が無いと思ったので、大きな声で言い返した。
「我是日本人!宋さんは友達で、これから一緒に上海駅へ行くところです!」
私がこう言うとさっきまで般若の面のような顔をしていたのが一瞬にして崩れ、笑顔になった。
「あ、そう!(会心の笑顔)気を付けて行くんだよ!再見!(ザイチェン)」
警察官はパトカーに乗り込み、笑顔で会釈して走り去った。
私達はしばらく黙ったまま歩き、頭の整理をした。
なぜ、こんなことになったのだろうか。密告があったことは間違いない。ではなぜ密告されたのか。私は初め中国人と日本人が仲良くすることを禁ずるルールでもあって、ルール違反を見つけた庶民が密告したのかと思った。でも多分それは外れだろう。中国政府は外国人を招き入れる政策を取っており、外国人をだまして酷い目にあわせる事を厳しく禁じていて、そのような動きを見つけた者は直ちに警察に連絡するように、というお達しが出ていると読めば警察官とのやり取りに合点がいく。
「我是日本人!」
宋さんは下を向いたまま歩いていた。
そして、なぜこの一言で事態が打開できたのかという疑問と羨望となんやかんや複雑な心情をミックスした固い表情のまま、こうつぶやいた。
「ウォーシーリーペンレン・・・」(私は日本人です)
91 店長やる気になった?
年が開けると次は春節(チュンジェ)だ。春節が終わったらすぐ3月になる。年明けと共に行動のピッチを上げていった。面接は4社受けた。日系2社、中国系2社。中国系の会社から是非来て欲しいと言われたが、条件面で折り合いが付かなかった。簡単に言えば給料が安過ぎた。日本帰りの女性社長が経営する、シュークリームを製造、販売する会社の営業だったが、給料は1500元と言われた。タイピングミスではない1500元だ。(1元は15円)。私がまだ上海に来たてで、懐に余裕あったら考える余地ぐらいはあったが、この段階に至っては断るしかない。
2件目の新しい店は春節明けにオープンすることになった。改装工事もやり出したら早い。2週間で大部分の工事は終わった。が、その他の細かいところの調整に時間がかかった。エアコン、照明、音響機器の調整などだ。
ある日のこと。
その日は大寒波でお客様来ないだろう事が予測できた。
ピアノラウンジで勤務している時、2階に居る社長に呼ばれた。
「モリイ君、ちょっと」
私は2階へ行き、社長の前に座った。
「まあ、飲みなよ」社長はグラスにワインを注いだ。
「すみません。いただきます」
「この2ヶ月忙しかったな」
「はい・・・」
「もうすぐ旧正月だな。親御さんになんか送ってあげなよ。金ある?」
「もうあまりありません」
私がそう言うと、社長は隣にいる姉姉にこう言った。
「カネやって」
姉姉が社長の財布を開くと、中身が飛び出してきそうな勢いで口が開いた。びっしりと100元札(最高額紙幣)が詰まっていて、100枚以上ありそうだ。
「いえ、今月分ぐらいはありますので大丈夫です」
そう言うと姉姉は財布をしまった。
「どうよ、店長やる気になった?」
「う・・やってみたいとは思うんですが、ビザがもうすぐ切れますし・・・」
「そんなこと後からいくらでも教えてやるよ。やる気あるのかどうかって聞いてんだよ」
「・・・・・・」
「あんた、いつになったら結論出すの!」
私は返答に窮した。なぜなら2軒目はカラオケ屋だからだ。
明確な回答をしないまま月日はどんどん経過してリミットの3月になってしまい、ビザ切れ、資金切れ、アパートも契約終了日が近づいていた。
92 不動産トラブル再び
「リンリン、・・・リンリン・・・」
朝方、電話の呼び鈴で目が覚めた。
「ウェイ・・・」
「****!!********!!!」
声を聞いた限り、中年のおばさんのようだ。いきなり喚き散らして何が何だかさっぱり分からない。私は間違い電話かいたずら電話だろうと思い、ガチャンと切った。すると何分かしてまた電話が鳴った。
「ウェイ!どちら様ですか!」
「私は大家だ!何であんたそこに住んでる!?」
今度は中年のおじさんの声だ。「何で住んでる!」と絶叫されても意味がさっぱり分からない。こいつら気違いかと思ってほとんど相手にせず電話を切った。
1時間ぐらい経過すると、ドン!ドン!と玄関のドアを叩く音が聞こえた。
「これはただ事ではない・・・」
事の重大さに気付き、身構えて玄関へ向かった。ほうきやら包丁やらの場所を確認して。
「ドン!ドン!ドン!」
「ちょっと待って下さい!あなた誰ですか!?」
「私は大家だ!何であんたここに住んでるんだ!?」
「はい? 私はこの部屋を借りてるんです。あなたこそホントに大家さんですか!?」
「大家だ!!!」
玄関のドアを恐る恐る開けて外を見ると、まともそうなおじさんが立っている。
「ホントですか?信じられません。じゃあ、一緒に不動産屋へ行きましょう。それでいいですか?」
「一緒に行こう!!!」
「準備しますので5分だけ待って下さい!」
不動産屋はすぐ近所だ。歩いて行く間、その中年男性と少し話しをしたら、
「あんたは不動産屋の友達で、大家に内緒で部屋を貸せと言ったらしいね」と言う。冗談じゃない!
これで謎が解けた。不動産屋は大家に内緒で私に部屋を貸し、家賃を自分の懐に入れたという事だ。
不動産屋に到着した。一番冷静な私が取り仕切るべきだと思い、大家と不動産を対面に座らせ、私は3者がトライアングルになるように座った。そしてこう切り出した。
「それでは始めます 準備はよろしいですか」
2人はうなずいた。
「私は日本人です」そう言ってパスポートを大家さんに渡した。
「1ヶ月半前にここの不動産に来て、部屋を紹介してもらい、住んでいます。契約は2ヶ月です」
そう言って契約書類を大家さんに見せた。私は話しを続けた。
「そしてこちらの担当者は私の友達ではありません」
話は簡単に決着がついた。不動産屋と私がグルになっているという誤解も簡単に解けた。 それにしてもひどい話だ。日本でもこういう話があるのだろうか。多分無いだろう。日本はもっと複雑巧妙だから。
93 STRONG BUY!
U氏とはたまに電話で連絡を取っていた。
「ITバブル以降、日本株は下がりっ放しですが、そろそろ3年ですね。そろそろ底打ちだと思うんですが、どう思いますか?」
私がそうと質問するとU氏はきっぱりと答えた。
「もうすぐ底打ちして今年は上がるでしょ」
迷いも何もない100%確信した回答であった。
「どうしてそう思うんですか?」
「ファンダメンタル的にもチャート的にも。それに今年は上がる年ですから」
U氏と話して、私は迷っている自分が馬鹿らしくなった。
「そうだよ。今年は上がる年なんだよ」
そう考えれば、上がるロジックが鮮明に浮かび上がってきて確信に変わった。
「ITバブルの日柄整理は3年で終わりだ。長かったな。そろそろ日本に帰る準備だ。これからは日本買いだ。STRONG BUY」
休みを利用してちゃーとん君が遊びに来てくれた。うちの近くのちょっと高級中華料理へ行き話しをした。主に帰国について。
私はその後、ピアノラウンジへ行かねばならなかったので部屋に帰って着替えをした。 クリーム色のワイシャツに赤系のネクタイ、スーツ、黒のロングコート、マフラー、こげ茶の革手袋、黒の革靴、といういでたちで、私は自転車通勤していた。以前ママに笑われたが、私は「中国だからなんでもありです」と平気だった。
そんないでたちで自転車に2人乗りして虹橋開発区へ向かった。行きはなだらかな下りなのでそんなにきつくない。その日は無風で風もそんなに冷たくなかった。自転車をこぎながら後ろのちゃーとん君にこう言った。
「俺たちなんか青春してない?」
「はっはっは。青春なんですか?」
「ここは日本じゃなくて上海だよね。そして俺達は今、上海ビジネスの中心地虹橋開発区へ向かっている・・・・・・・自転車で」
「そうですね」
「なんかこのシーン絵になると思うんだけどどうかな?」
「そうですか?」
「いや、きっと絵になるよ。ビデオに収めときたいぐらいだよ」
「じゃあ、そういう映画でも作って下さい」
「うん、俺たち熱いね。かっこよ過ぎる。まだ終わりじゃないよ。これからだよ。人間は死ぬまで成長するんだからね」
上海探求 職探し編 完
第十一章 最後に みんなへのメッセージ
94 仕事は自分で探す
仕事は自分で探したいと考えている。
今私が取り組んでいるのは「株」「大家業」「調停代理人」「物書き」だ。この中で一番大事だと思うのは「株」「大家業」つまり投資だ。自分が体を動かす必要がないのでうまくやれば儲けは無限大だからだ。次は著述業。印刷して売れればお金になる。お金を印刷しているようなものだ。最後が調停代理人。体、口を動かさなきゃならないから元気なうちしかできないし、自ずと限界がある。後ろ向きの仕事でもあり、あまり気持ちがいいものではない。
皆さんも あまり難しく考えず、人様のお役に立つ事、人様を楽しませる事を念頭に置いておけば、仕事はいくらでも見つかるのではないだろうか。思いついたら人には相談せず、とにかく始めることだ。周りの人に相談しても否定意見を矢のようで浴びて挫けてしまうだけだから。
失敗して借金が残ると問題だが、好きな事、得意な事、やりたい事があり、貯金の範囲内で出来ることなら思いつく限り全部やってみたらいい。
95 天才の系譜
ヘッジファンド、デイトレード、オプション、空売り・・・。投資に関する用語が花盛りである。それもほとんど外国から来たと思わせる外来語ばかりだ。これを見て外国人には敵わないなどと思っていては戦う前から既に負けている。
先物取引、ローソク足という言葉をご存知だろうか。実はこれらは江戸時代の日本人が発明したものだ。この前の大戦争(統制、配給経済)とその後の社会主義的経済から投資という観点はすっかり日陰に追いやられていたから知らない人が多いのも無理もないが、大戦前の日本は原理資本主義経済であった。そういう時代も日本史にはある。
だから日本人は自信を持って良い。お金、経済、投資などという抽象思考をやらせても日本人は世界レベルで戦える頭脳を持っているのだ。
日本で生まれ、日本で育った人はかなりラッキーだ。電気でも化学でも機械だろうがコンピューターだろうが、あらゆる分野で世界トップレベルにあるから研究者が書いたものを読めば世界トップレベルの事が理解できる。もしあなたがどこかアフリカの貧しい国に生まれていたらどうだろうか。そのような国には研究の積み重ねがないから、学ぼうと思ったら日本語なり英語なり、先進国の言語を身につけることから始める必要がある。これはかなり不利な条件だ。
それは投資に関しても言えることだ。その気になれば投資の世界で巨富を築いた先達が残したノウハウを学ぶことができる。日本人が自らの頭脳で編み出した、世界トップレベルとも言える研究結果が本という形で残されているからだ。古くは江戸時代の米相場の天才、本間宗久翁、本多静六博士、永遠の師匠、是川銀蔵さん。
一生を通じて学び取ったエッセンスを一冊の本にぎゅっと圧縮して残してくれている。子孫である私たちはこういうものから学び取って成長しなければ不甲斐ないではないか。
96 出でよ!世界一の投資家!
私よりももっと若い人達の中から、世界レベルで活躍する人が出てきて欲しいと願ってこの本を書いた。削除せざるを得なかった所もあるが、そこは想像力を逞しくして読んで欲しい。
この本を読んでいるあなたは私が16年かかって知った事をこの本を読むだけで全て知る事ができる。ラッキーなのだ。だからといって道を譲る気はない。勝負だ。
世界レベルの投資家はどのくらいのペースで資産を増やしているかご存知だろうか。1年で2倍だろうか、5倍だろうか、それとも10倍か?答えは1年で30%増だ。信じられない人は電卓を叩いてみれば良い。20年、30年経った時、もの凄い資産になっている事が分かる。年30%増やせれば世界トップレベルなのだ。だから、私の歩みは非常にゆっくりだが慌てる事はないと思っている。
世界はチャンスと興奮に満ちている。しっかりと準備してチャンスに備えれば必ず幸運の女神が現れる。決して諦める事なく前向きに努力し続ける事。どんな苦しい時にも日本の利益を考えること。そういう人間の前にだけ女神が現れる。顔を上げて前を向いていないとチャンスは見えないのだから。
祖父母の世代は血を流してアジアの広い範囲でスーパーパワーを発揮し、世界史をひっくり返した。
父母の世代は仕事して世界ナンバーワンの座に君臨した。
私たちの世代がやるべき事はなんだろうか。最近の100年、日本でやった事を世界中でやるのが私たちの世代がやるべき事だと思う。まずはアジアだ。そうすれば今までに先輩方が築き上げた100倍の富と、100万倍の名声を勝ち取ることができる。使命ある者は立ち上がらなければならない。
我々日本人は全員、幸運の星の下、天才の系譜の上に生まれ落ちた。あとは自分自身の努力と根性で辿り着きたい島を目指して船を漕ぐだけだ。
お互いに切磋琢磨して世界一を目指そう。強い日本を築き上げよう。21世紀を日本の世紀とするために・・・
モリイ
発行者―――森近 秀光
電話 (084)987-3038
e-mail morichika.hidemitsu@gmail.com
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