(前提1)言いたいことが上手く言えないもどかしさが作品を生む原動力になる。
(前提2)作品は視聴者がプロデューサーになって好きに脚色できる。
(結論)したがって作品の解釈は千通りあるのを黙認すべき。
というのが本記事の主張です。
天気の子の後半について僕は「権力や大人と戦う帆高は素晴らしい」と感じていました。最後は陽菜を救ってうまいこと着地したと思っていたのです。天気は神であり、人力の及ばない存在ですから筋が通っていると思っていました。
ところが原作者が「異常な天気は国際情勢をモチーフにしている」と言った途端、天気が戦うべき相手(敵)になってしまいました。天気が「神」から「敵」にすり替わってしまったのです。「じゃあ何で戦わないのだ」と自分の脚色にバツをつけられた恨みとともに残念な気持ちになりました。
後半は帆高が大人と戦うシーンの連続です。なのに最後逃げるのか?となってつまらない男に格下げされたのです。
帆高が戦う男なら最後も陽菜を救って死ぬべきでした。
原作者が「真意はこうですよ」と語るのは、千通りある解釈全部にバツをつける行為に等しい。
作品が自分の手を離れたら原作者は語らない。僭越だし野暮だしオ○二○です。
自戒を込めて。
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